働き方や仕事の捉え方は、国や地域によって大きく異なります。日本の常識が世界の非常識であることも珍しくはありません。
オーストラリア・メルボルンにある公立中高一貫校で日本語教師として働いて22年になる渡辺発帆さんは、「私は日本では”はみ出し者”と感じていましたが、オーストラリアに移住して、多様性を受け入れるカルチャーのなか、自分らしく働けています」と語ります。渡辺さんにオージー流の働き方・仕事の捉え方をうかがいました。
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渡辺発帆(わたなべ はつほ)さん:
脱サラしてオーストラリアに移住し、日本語教師となる(歴22年)現在はメルボルンの公立中高一貫校「Mentone Girls’ Secondary College」に勤務。University of Technology Sydney(シドニー工科大学)卒業、Graduate Diploma(準修士) 取得。Google認定教師、Microsoft Innovative Educator。
目次
ジグソーパズルのピースになれなかった自分
――渡辺さんがメルボルンで日本語教師をするに至った経緯を教えてください。
渡辺:私とオーストラリアとの出会いは小学校4年生のとき、父の仕事関係(駐在)でメルボルンに移り住んだのがきっかけです。小学校を卒業するまでの3年間を過ごし、オーストラリアが好きになりました。帰国後、中学・高校と進学し、高校2年のときに交換留学制度を利用して、再びオーストラリア(ニューサウスウェールズ州)へ渡りました。
当時(1990年代)オーストラリアでは日本語ブームが始まっていて、近所の人から「家庭教師として日本語を教えてほしい」と頼まれたんです。そのときは知識も経験もなくて教えられなかったのですが、「日本語教育というキャリアパスもあるんだな」と気づきました。
1年間の交換留学を終えて帰国し、進路を選ぶにあたって、通訳、フライトアテンダント、日本語教師で迷ったのですが、日本語教育がおもしろそうだと感じ、文学部日本語日本文学科のある大学に入りました。
卒業後すぐにでも日本語教師になりたかったのですが、お金がなくて新卒で就職しました。英語を使える仕事がいいなと思って外資系企業を選んだのですが、英語とまったく関係ない営業部に配属されて……。やりたい仕事ではなかったので、勤務態度も決してよかったとは言えません。サラリーマン時代は、黒歴史とまではいいませんが、グレー歴史ですね。
3年間勤めて退職し、1999年にニューサウスウェールズ州にあるUniversity of Technology Sydney(シドニー工科大学)に入学しました。そこには大学と大学院の間に相当する、Graduate Diploma(準修士)コースが設置されており、1年間でオーストラリアの教員免許が取れたからです。
教員免許取得後、メルボルンで日本語教師アシスタントプログラムに1年間参加して、2001年に晴れて公立中高一貫校の教師(公務員)になれました。2001年から2022年までの21年間ずっと同じ学校で日本語教師を教え、2023年に入って、現在の勤務先である「Mentone Girls’ Secondary College」に移りました。
――脱サラしてオーストラリアに移住するのは大きな決断だったと思うのですが、何が渡辺さんをそうさせたのでしょうか?
渡辺:10代のときに計4年間暮らした経験から、オーストラリアのライフスタイルが自分に合っていると感じていました。日本では、会社の人がプライベートの細かいところまで口を出してきて嫌だなと感じていましたが、オーストラリアではそんなことはありえません。
たとえるなら、自分はシンプルな四角いピースなのに、周りがジグソーパズルにピタっとはまるように切り裂いてくるような感覚。切り裂かれるせいでパズルにはきれいに収まるのですが、自分の心は傷だらけで血まみれなわけです。
この先どうなるんだろうと将来への不安を強く感じていたときに、漫画『ONE PIECE』を読んで、主人公ルフィの「(海賊王に)おれがなるって決めたんだから、そのために戦って死ぬんなら別にいい」というセリフにハッとしました。この決意でいけばいいんだな、夢のためなら倒れても別にいいじゃないかと気づいて、心が軽くなったんです。
それで、思い切ってオーストラリアに移住したら、生きづらさから解放されて、自分らしくのびのびと暮らせるようになりました。日本では“はみ出し者”という自覚がありましたが、オーストラリアではありのままの自分を受け入れてもらえる感覚があります。
多様性を受け入れるオーストラリアのカルチャー
――ありのままを受け入れてもらえる感覚とはどのようなものでしょうか。
渡辺:外国人や海外生まれの親を持つ人が多く暮らすオーストラリアは、多様性(diversity)に富んだ国です。地域差はあるものの、複数の文化が共存することを積極的に受け入れる多文化主義(multiculturalism)が根付いています。自分とは異なる文化が存在していることを認識し、ありのままを受け入れるカルチャーなのです。
私が勤務するメルボルンの学校にもさまざまなバックグラウンドを持つ教師たちがいます。日本では「教師たるもの、かくあるべし」といった不文律があるのかもしれませんが、こちらではそんなことはありません。
奇抜なファッションをしている先生もいれば、大きなタトゥーを入れている先生もいます。毎日きれいにメイクとネイルをしている男の先生もいて、当初は「日本だったら教育委員会になにか言われるんじゃないかな」と面くらったのを覚えています。
さまざまなバックグラウンドや性的指向・性自認などを持つのは、教師だけではありません。当然生徒にもいえることで、生徒の多様性を担保するためには、まず教師の多様性を認める必要がある、と多くの人が考えているのでしょう。
私の勤務先は女子校ですが、本人が望めば、性自認が男性なら「he/him」、クエスチョニングなら「they/them」の呼称を使います。その子たちが浮くことなく、自分らしく学校生活を送っているのを見ると、「ジグソーパズルのピースにはめない」ってこういうことだなと思いますね。
お金持ちより時間持ち。余白を大切にするオージー
――オーストラリアと日本の働き方はかなり違うと感じますか?
渡辺:オーストラリア人(=オージー)は時間にルーズだと思われがちですが、実はすごく時間にきっちりしてるんです。日本の会社や学校は、始業時間は厳格でも終業時間があってないようなものですよね。オーストラリアは反対で、たとえばお店やレストランの始まる時間はあやふやでも終わる時間はきっちりしています。
それは、オージーがプライベートの時間を大事にしてるから。たとえば、16時30分に終了予定のミーティングがあって、ファシリテーターが時間までに終わらせることができなかったら、みんな出て行ってしまうんです。最初はカルチャーショックを受けましたね。
日本では「お金持ち」であるかどうかを気にしますが、オーストラリアには「時間持ち」という概念があります。こちらで暮らすようになって、時間があることは幸せな人生のための条件のひとつだと思うようになりました。
漫画『寄生獣』の最終話で、寄生生物「ミギー」が「心に余裕(ヒマ)がある生物。なんとすばらしい!!」と、人間を褒めるシーンがありますが、本当にヒマ=余裕は大切です。
要は、余白の部分ですよね。意識的か無意識的かはわかりませんが、オージーは余白をとても大切にしています。残業して残業代を稼ぐよりも、さっさと家に帰ってラブリーワイフとワイングラスを傾けるほうが幸せだと考える人が多いです。
仕事のための人生ではなく、望む生き方のために働く
――オーストラリアではキャリアチェンジ、ジョブチェンジが珍しくないのですか。
渡辺:オーストラリアでは、キャリアチェンジ、ジョブチェンジは一般的です。前の学校で一緒に働いていた美術の先生は、前職がアパレルの店員だったのですが、「昨日と同じ今日が来る」というルーティーンに耐えられなくなって、教師になったと言っていました。教師をやっていると大変なこともあるけれど、毎日がエキサイティングだと。
また、誰もが知っている大企業をやめて数学教師になった同僚もいます。60歳手前だったので、前職ではかなり役職も上で、給料も相当高かったと思うのですが、教師になったらまた初任給からスタートです。それでも教師をやりたいとジョブチェンジしたのは、自分の心に正直に生きたかったからだと言っていました。
さきほどの「多様性を受け入れる」にも通じるのかもしれませんが、オージーはありのままの自分でいたい気持ちが強いんだと思います。無理に自分を押さえつけて何かに当てはめるのではなく、「自分はこうありたい」という気持ちでまい進するんです。
学びたいことが見つかれば、会社をやめて再び学生になる人も珍しくありません。去年同じ学校で日本語を教えていた同僚は、「プログラマになりたい」と大学に入り直しました。会社名や肩書きではなく、そこで何がやれるのか。仕事に自分を合わせるのではなく、自分らしく生きるために仕事を選ぶのがオージー流なのでしょう。
私の場合は「日本語教師になってオーストラリアで暮らしたい」という夢がありましたが、もちろん、望む生き方は人それぞれ。もし、過去の私のように「無理やりジグソーパズルにはめられている」と感じているなら、環境を変えてみるとよいかもしれません。今の場所にしがみつかなくても、自分らしく働ける環境はきっとあるはずですから。
(取材/文:ayan)