「ICT教育」という言葉を聞いたことがありますか?

ICTは「Information and Communication Technology」の略称で、日本語では「情報通信技術」と訳されます。ITと違うのは「Communication」が入っている点です。情報処理に留まらず、ネットワークを人間同士のコミュニケーションに活用することを目的としています。

ICT教育は、ICTを用いて、アナログでおこなっていた教育をデジタル化する取り組みのこと。電子黒板やPC、タブレットといった情報端末の導入や、オンライン学習支援ツールを使っておこなう教育の総称です。日本では文部科学省がICT教育を推進しており、その中心となる施策として「GIGAスクール構想」を提唱しています。

しかし、世界に目を向ければ、日本のICT教育はまだ遅れていると言わざるを得ません。オーストラリア・メルボルンにある公立中高一貫校で日本語教師として働いて22年になる渡辺発帆さんは、「もはやオーストラリアではICT教育がごく当たり前になっています」と語ります。渡辺さんにオーストラリアの学校での「今」をうかがいました。

渡辺発帆(わたなべ はつほ)さん:
脱サラしてオーストラリアに移住し、日本語教師となる(歴22年)現在はメルボルンの公立中高一貫校「Mentone Girls’ Secondary College」に勤務。University of Technology Sydney(シドニー工科大学)卒業、Graduate Diploma(準修士) 取得。Google認定教師、Microsoft Innovative Educator。

2010年からICT教育に取り組んでいた


――渡辺さんは「Google認定教師」と「マイクロソフト認定教育イノベーター」の資格を持っているそうですが、これらはどんな資格ですか?

渡辺:私はもともと教育のデジタル化に強い興味があり、自発的にこれらの資格を取得しました。日本語教師としては珍しいかもしれませんね。

Google認定教師(Google Certified Teacher)は今はもうないシステム(現在はGoogle認定イノベーター)ですが、Googleが認定する教育者向けの資格で、Google for Educationに関する知識と技能の水準を客観的に証明するものです。

私がこの資格を取った2013年は、YouTubeが現在ほど一般的ではありませんでしたが、「自分がICT教育においてどんな革新的なことをしていて、どう教育界に貢献しているか」を2分の動画にしてYouTubeにアップし、Googleに対してプレゼンする必要がありました。

当時は初代iPadが世の中に出て3年ほどでしたが、私はiPadアプリを教育に活用する方法を模索して片っ端からアプリをダウンロードして試したり、当時まだ非常に高価だった電子黒板を授業で使えるようにDIYしていたりしたので、そのことをアピールしたんです。

その結果、私は世界でわずか50人のGoogle認定教師になれました。シドニーで開催された研修には世界各国からGoogle認定教師が集まり、ICT教育における世界のトップ教師たちと知り合いになってICT教育の先端に触れられたのはとても刺激的な体験でした。

マイクロソフト認定教育イノベーター(MIEE:Microsoft Innovative Educator Expert)は、教育現場におけるテクノロジー活用を先導する教育者のコミュニティです。「すべての教育者とすべての学校がより多くのことを達成できる新しい教育を目指す」をコンセプトにしたマイクロソフト公式のプログラムでもあり、授業での効率的なMicrosoftのアプリの使い方など、よりよいICTの活用方法を学べます。

当時ICT教育は時代の先をいくもので、私も「ICT教育系の日本語教師」と名乗っていましたが、2023年現在、オーストラリアではICT教育はもはや当たり前のものとなり、ことさらICTをアピールする意味もなくなってきています。

教育がデジタル化して授業のあり方が変わった


――渡辺さんは現在メルボルンの公立中高一貫校で日本語教師として働いているそうですが、実際の授業でどのようにICTが活用されているか教えてください。

渡辺:オーストラリアでICT教育が導入されたのはもうかなり前のことですが、実際に普及し浸透したのは、ここ5~6年くらいといってよいのではないでしょうか。

ICT活用にはいくつかのレベルがありますが、最初に定着したのは紙からデータファイルへの置き換えです。教師はプリントを配布する代わりにデータファイルを送信し、生徒が課題を提出するのもオンラインです。期末試験も、美術の実技といった一部のものを除き、生徒がノートPCにスタイラス(先の尖った棒状の筆記具/タッチペン)で書き込みます。

授業でも、教師は電子黒板に板書をするので、生徒はノートに書き写す必要がありません。板書した内容はすべてデジタルで生徒のPCに送られますから。板書した授業の展開を単純に書き写すことがなくなって、教師側は「生徒がなぜそれをノートに書き取るのか」の意味を再定義する時期にきていると感じています。

――ICT教育のおかげでコロナ禍も比較的スムーズに授業ができたのでしょうか。

渡辺:メルボルンは、コロナ禍で世界最長となる262日間のロックダウンを経験しました。その期間は休校になったので、LMS(Learning Management System)と呼ばれる学習管理システムを用い、教師と家庭が連絡を取り合いながらオンライン授業を進めました。

長いロックダウンに突入する前に政府の1to1政策(生徒1人に対してPC1台を配布する政策)が、地域差はあったものの、ほぼ完了していたため、比較的スムーズにオンラインでの授業が展開できたのはラッキーだったと思います。

とはいえ、家庭によってはWi-Fi環境がないこともあり、通信機器の貸出など個別サポートが必要でした。また、懸念事項だったのは、保護者のITリテラシーしだいで生徒の学習に差が出てしまうことです。たとえば、Wi-Fiルーターの調子が悪いときすぐに対処できる家なら子どもはそのまま授業を受けられますが、そうでなければ一日授業に参加できません。

教師側は、オンラインになったことで生まれる教育機会の差を最小限にできるよう、プランAがダメだったときのプランB、プランCを用意して、手探りで進めていった感じです。

ICT教育が浸透して良かったこと、悪かったこと


――ICT教育が浸透して良かったこと、悪かったことを教えてください。

渡辺:第一に良かったことは、教師と生徒間、教師と教師間、生徒と生徒間のコミュニケーションが早くなったことです。ロックダウン中に生徒複数人が協力して取り組むグループワークがあったのですが、たとえば、Googleドキュメントで提出する課題なら、4人が同時に書き込めますよね。これはアナログ(紙)ではできなかったことでしょう。

教師の立場でいえば、世界中の先生とつながれて、意見やアイデアを交換できるようになったのもメリットです。今までは、オーストラリアの、その中のメルボルンの顔見知りの教師と話すだけだったのが、一気に世界中の先生とやりとりできるようになりました。

さらに、生徒側のメリットとして「自分がどこに向かっていくべきか」が明確になったことが挙げられると思います。たとえば、学校のカリキュラムも「ルーブリック」もすべて開示されており、生徒が見ようと思えば見られるんです。

ルーブリックとは、学習目標の達成度を示す評価基準を、観点と尺度からなる表として示す評価ツールのこと。細かくチャートになっていて、この条件を満たしていたらA、この条件を満たしていたらBといったことが書かれています。それを見れば、生徒はどの項目をどれだけ頑張れば目指す成績が取れるかわかるわけです。

生徒自身がこうした客観的な視点を得られるのは、ICT教育のよい点の一つだと思います。

逆に、悪かったことというべきかわかりませんが、対面で話せない状態が長く続いたとき、生徒の人間形成にどういう影響を与えるのかは気がかりです。数値化は難しいですが、人間のコミュニケーションにおいて実際に会うことにはすごくパワーがあり、やはりオンラインで話してるのとは違うと思います。そうした部分の長期的な影響は気になるところですね。

AI×日本語教育で、世界の解像度を上げていきたい


――今AIが急速に進歩していますが、AIは教育にどう関わっていくと思いますか?

渡辺:今興味があるのは、AIがあらゆるものを創造してくれる世界において、自分がどういった価値を生み出していけるか、AIと日本語教育をどうつなげていくかということです。

AIが通訳をしてくれれば外国語教育が不要になるのかというと、そんなことはありません。人間の成長過程における自己形成が教育のコアだとすると、その一助となるのが日本語教育だと私は考えています。なので、AIや日本語教育を使ってどのように生徒の自己形成を手助けしていけるかが最大の関心ごとです。

ステレオタイプではないものの見方を身につけていくのに、学びは欠かせません。最近聞いていいなと思ったのは「世界の解像度が上がる」という言葉です。

地面に数字の「6」が置いてあったとして、手前に立っている人には「6」に見えますが、向こう側に立っている人には「9」に見えます。同じ事象なのに、人によってまったく違うものに見えるわけです。しかし、上空から俯瞰して見られたら、両方の見方があることに気づけます。私はそこが大切なんじゃないかなと思うんです。

単純作業はどんどん削ぎ落とされ、人間にしかできないことは何かが問いただされる時代、言葉や文化が絡んだ技術をツールとして用い、教えていくこと・学んでいくことは、私たちの世界の解像度を上げてくれると信じています。

一朝一夕では、さしたる変化は見られません。しかし、生クリームをホイップするときも、プリンのカラメルをつくるときも、ある時点から急激に完成に近づきます。表面的には何も変化が見えない日々でも、学ぶ努力を続けていけば、ある日世界の見え方が変わっていることに気づけるでしょう。

ーー

次回【在豪22年の日本語教師に聞く、オージー流の働き方・仕事の捉え方】に続きます。

(取材・文:ayan

presented by paiza

Share