筆者は、美術館のポータルサイトで武将や合戦について執筆していたことがあります。武将の生き方を現代のキャリアに投影させると、うまくはまることに気づき、この連載をスタートしました。
今回のテーマは、大河ドラマ『どうする家康』で溝端淳平さん演じる今川氏真(うじざね)です。前回の武田勝頼(かつより)に続いての今川氏真。この2人に共通するのは、自分の代で名家と呼ばれる家をつぶしてしまったこと。言葉悪く言えば、戦国時代を代表する「ダメ後継者」2大巨頭です。しかし、氏真のたどった生涯は、勝頼とはまったく異なります。
武田勝頼と同様に、名家に生まれ偉大な父を持った今川氏真。彼の人生から得られる「キャリア上の学び」とは、いったいどのようなことでしょうか?
目次
今川氏真とは
今川氏真(1538~1615)は、戦国時代から江戸時代にかけての駿河国・遠江国(静岡県中・西部)の武将・戦国大名。文化人。今川家12代当主。
「海道一の弓取り」(東海道一の国持大名)と呼ばれた今川義元の嫡子。1558年家督を相続。1560年桶狭間の戦いで、父の義元が尾張国(愛知県西部)の織田信長に敗れ死去しました。
氏真は活発な文書発給を行い、寺社や国人の繋ぎ止めを図りますが、今川家の衰退を止めることはできませんでした。1568年に甲斐国(山梨県)の武田信玄が駿河に侵入し、戦国大名としての今川家は滅亡します。
青年期より和歌や書、学問に親しんだ氏真は、三河国(愛知県西部)の徳川家康の庇護を受けて文化人として生き、77歳で死去。
【挫折ポイント】名家に生まれながら武将としての才なし
今川氏真は、今川義元と武田信虎の娘である定恵院(じょうけいいん)の間に、嫡男として誕生。武田信玄は氏真の叔父、勝頼は従弟に当たります。
『どうする家康』のユニークな点は、通常大きく取り上げられることの少ない武田勝頼や今川氏真にスポットを当てていること。しかも、2人をただの「ダメ後継者」には描いていません。それは現代の研究者の間でも2人の評価が変化していることと無関係ではないでしょう。
氏真の場合、父の今川義元の評価もうなぎのぼりです。従来の義元は、「まろ眉の貴族」的に描かれるのが定説でした。
今川のお膝元・駿府(すんぷ:現在の静岡市)は、京の都と見まごうばかりの雅(みやび)な大都市。戦国三大文化の一つで、公家風の今川文化が花開きました。公家文化薫る駿府に住まう義元は「公家かぶれの腰抜け」というイメージです。2020年の『麒麟が来る』で、片岡愛之助さんが演じた義元が従来のイメージのままだったのは、まだ記憶に新しいところ。
ところが、『どうする家康』で野村萬斎さん演じる義元は、教養高く気品のある、懐の大きな名君として描かれました。若き日の家康は「太守様」こと義元の教えを大きな指針として、戦国大名の道を切り開いていきます。
ドラマでは、その嫡男である氏真を登場当初から短慮で浅はかな若君として描いてきました。幼いころより今川家で「人質」として生活してきた家康は、氏真に遠慮して、御前試合でわざと負けます。それを父に指摘された氏真は「バカにされた」と受け取って家康に激高してしまうのです。
その気持ち……わかるような気がしませんか?相手がわざと負けるのは、明らかに自分を下に見て、手を抜いているから。それなのに、勝利を疑いもせず調子に乗っていた自分が恥ずかしくて、悔しくて。その想いを家康にぶつけたくなる気持ち、ああ、わかるよ、と氏真の肩をそっと叩きたくなります。
『どうする家康』では、寝る間も惜しんで武道の鍛錬を続ける「鬼気迫る」氏真の姿も描かれます。しかし悲しいかな、父からは「才なし」との評価をつきつけられてしまうのです。氏真は、武道より和歌や蹴鞠が得意だったと伝わります。彼の才能はほかにしっかりとあるのですが、この時代には価値を見出されにくい才能でした。
氏真は1580年に20歳で家督を継いだとされますが、ほとんど国務を担わないまま、1560年の運命の日を迎えました。
【ターニングポイント】桶狭間の戦いで世界がひっくり返る
1560年、織田信長が今川義元を討った「桶狭間の戦い」が起こり、戦国の世はひっくり返ります。駿河・遠江・三河の三国を治め、今川家の最盛期を築き上げた義元。さらに領土を西に広げようと織田領に侵攻したところを、新興勢力である織田信長に敗北するのです。
現代のわたしたちは、のちに天下人となった信長の勝利を当然のように受け止めますが、当時の尾張は弱小国で信長はまだ20代の若者。戦国の人々にとって、信長の勝利は奇跡的なことでした。ましてや、今川家家臣に与えた衝撃はどれほど大きかったでしょう。
氏真を見限った家臣による離反は相次ぎ、徳川家康も独立を果たしました。家臣たちは今川家というよりは、今川義元という「カリスマ的なリーダー」に仕えていました。この点、最強の武田軍団が、カリスマ武田信玄に仕えていたのと似ています。家臣たちは自分の身を守るために、常に「より強い主君」に仕えることを考えるのです。
さらに、義元の死によって「甲相駿(こうそうすん)三国同盟」のバランスが崩れます。「甲相駿三国同盟」とは、「甲斐の武田、相模(神奈川)の後北条、駿河の今川」の間に結ばれた同盟のこと。
三国は婚姻関係で結ばれ、氏真の正室も北条氏康の娘である早川殿(ドラマ内の名:糸)です。足がやや不自由なために氏真に疎まれながらも、聡明で心優しい糸。ドラマの中で、亡き義元の氏真への想いを伝える志田未来さんの言葉は涙を誘いました。
武田信玄の嫡男・義信の正室は氏真の妹・嶺松院(れいしょういん)。ところが、1565年に信玄は義信を廃嫡し、1567年には嶺松院が今川家に帰されます。武田家の新たな嫡男である勝頼は、織田家から正室を迎えました。今川から織田へと寝返ったというわけです。
激怒した氏真は後北条と協力して、武田への塩止め(食塩の禁輸)をおこないます。所領に海のない武田にとってこれは非常に痛手です。そして氏真の取ったこの行動が、信玄に同盟を破る理由を与えてしまうこととなります。
1568年に武田信玄は同盟を破り、徳川家康とともに今川領へ侵攻を開始します。桶狭間の戦いから8年後のこのタイミングには、いくつかの理由が考えられますが、一番大きな理由は氏真の祖母・寿桂尼(じゅけいに)が亡くなったことでしょう。
寿桂尼は今川義元の父・氏親の正室。氏親・氏輝(義元の兄)・義元・氏真の4代にわたって今川家の政務を補佐した女丈夫で「尼御台(あまみだい)」と呼ばれました。一般的には尼御台といえば源頼朝の妻・北条政子を指しますが、寿桂尼も今川家において政子同様の権力を持っていたのです。
信玄は「絶対に勝つ戦しかしない」と決めていたといわれます。氏真の背後に寿桂尼がいるうちは手が出せなかったと考えられます。
武田・徳川の両側からの侵攻に、弱体化していた今川家はひとたまりもなく、追いつめられて掛川城へ。武田軍の裏切り(遠江への侵攻)により怒り心頭の家康は氏真と和睦を図り、後北条氏の援軍とともに武田軍を撃退しました。
【成功ポイント】失ってみて得たもの
家康との和睦の際に、遠江は徳川領、駿河は今川領と取り決められましたが、その後氏真が再度大名に返り咲くことはありませんでした。そのため、研究者の間でも、ここで戦国大名としての今川家は滅びたとするのが定説です。氏真はこのとき30歳。
氏真は暗愚な君主の象徴のように言われますが、求心力を失った今川家を、8年持ちこたえたのは立派です。家臣や周りの戦国大名との関係を保つために、彼なりにさまざまな策を講じたことがことごとく裏目に出たともいわれます。ほんの小さなボタンの掛け違いが命取りになる時代だったことは間違いありません。
氏真はその後、妻の早川殿の実家である後北条家に身を寄せます。しかし1571年に早川殿の父・北条氏康が亡くなると、跡を継いだ兄(もしくは弟)の氏政は、武田との同盟を復活してしまいます。夫妻は後北条家を追い出され、家康のもとに身を寄せました。氏真はその後、家康の家臣のような働きをしたと伝わります。
長篠の戦いの翌年である1576年には家康に三河の牧野城を与えられますが、1年(もしくは5年)ほどで職を解かれてしまいます。氏真にチャンスを与えてみたものの「才のなさ」に見限ったということなのでしょう。とはいえ、家康は氏真を見捨てることはなく、氏真は家康の庇護のもと生きていくこととなります。
名家に生まれながらも才能にも時代にも見放された氏真と、時代に選ばれて出世していく家康。従来の価値観にとらわれたまま生きれば、氏真の後半生は苦難の連続だったでしょう。
『どうする家康』での2人の会話は象徴的です。掛川城で「いつかあなたのように生きたい」という家康に「そなたはまだ降りるな。そこでまだまだ苦しめ」と答える氏真の表情には「降りた者」だけが持つ安堵がありました。彼は、武芸や政治力で力をはかられるステージから「降りることを許された」のです。
かつての臣下である家康の家臣になることは、負けず嫌いな氏真には本来屈辱この上ないことでしょう。しかし「家康と同じ土俵には上らない」と決めた氏真には、おだやかな日々が待っていたのではないでしょうか。
氏真は文化人としての人生を謳歌。のちに京都で「父の仇」である信長に対面し、面前で蹴鞠を披露したとも伝わります。生涯に詠んだ約1,700首の和歌のうち428首からなる私歌集「今川氏真詠草(えいそう)」を編纂。後水尾天皇の勅撰と伝わる「集外三十六歌仙」にも名を連ねています。
50代で京に移り住み、「仙巌斎」(せんがんさい)と称し、公家や文化人と交流。和歌や連歌の会に頻繁に参加しました。仲睦まじかったと伝わる早川殿のあとを追うように、1615年に79歳で亡くなります。豊臣家が滅亡した「大坂夏の陣」の年まで生き、家康の75歳より長寿でした。
氏真の文化的才能は、太平の世になってから、彼の子孫たちによって実を結びます。江戸幕府により今川家は高家旗本(こうけはたもと)に取り立てられたのです。高家とは儀式や典礼を司る役職で、幕府が朝廷をもてなす際の作法の指南役などで活躍。高家になれる家格は決まっており、今川家や吉良家など足利一門や公家などの名門の中から選ばれました。彼の血筋は明治期まで続きます。
「ありのままの自分」を認める
今川氏真は、名門・今川家に生まれ将来を嘱望されて成長しました。彼は期待に応えるような才能に恵まれず、偉大な父や未知の才能を秘めた徳川家康に強いコンプレックスを抱くようになります。しかし、人と比較することをやめて「ありのままの自分」を認めたとき、おそらく彼は「自分の居場所」と「幸せ」を手に入れたのではないでしょうか。
現代のわたしたちにも「人と比較する苦しさ」は常につきまといます。戦国時代のように一つの生き方しか選べないわけではありませんが、現代は「勝ち組」「負け組」が可視化できてしまう、ある意味「過酷な社会」です。
現代においては、SNSのフォロワー数で「人の力」を測ることが増えています。フォロワー至上主義といわれる世の中では、フォロワーの少ない自分に価値がないと考えがちです。けれど、人の価値は一点だけで計れるものではないはず。たくさんフォロワーがいるお陰で成功した人がいる一方で、SNSを使用しなくても活躍している人もいます。
ある人は、常にきれいな絵はがきを持ち歩き、何かの折には美しい文字で手紙を書くと決めているそうです。SNSも営業も苦手ですが、常に仕事が舞い込むといいます。これは一つの例ですが、現在主流のことだけが成功の秘けつとは限りません。苦手なことで勝負するのをやめるだけで、楽に生きられるようになるのではないでしょうか。
(文:陽菜ひよ子)