日本マイクロソフトの元業務執行役員で、現在は自分で会社を経営しながら数々の大企業の社外取締役や顧問も務める澤円さん。「プレゼンの神様」の異名を持つほどのプレゼンの名手としても知られていますが、若手時代の自身を澤さんは「ポンコツエンジニア」と表現します。

華々しい経歴も持つ澤さんは、「ポンコツエンジニア」からどのようにして現在の位置にたどりついたのでしょうか。苦しかった若手時代のこと、そしてどのようにして苦境を切り開いていったのかをお聞きしました。

画像提供:株式会社圓窓
澤円(さわ まどか)さん
立教大学経済学部卒。 生命保険のIT子会社勤務を経て、1997年、大手外資系IT企業に転職。情報共有系コンサルタントを経てプリセールスSEへ。最新のITテクノロジーに関する情報発信の役割を担う。2006年よりマネジメントに職掌を転換し、ピープルマネジメントを行うようになる。直属の部下のマネジメントだけではなく、多くの社内外の人たちのメンタリングも幅広く手掛けている。数多くのイベントに登壇し、プレゼンテーションに関して毎回高い評価を得ている。2015年より、サイバー犯罪に関する対応チームにも参加。
2019年10月10日より、株式会社圓窓 代表取締役就任。企業に属しながら個人でも活動を行う「複業」のロールモデルとなるべく活動中。また、美容業界やファッション業界の第一人者たちとのコラボも、業界を超えて積極的に行っている。テレビ・ラジオ等の出演多数。

バブル期じゃなかったからラッキーだった

――澤さんは、1993年に立教大学経済学部をご卒業後、エンジニアとして就職していらっしゃいます。当時、どのような就職活動だったのでしょうか。

澤円さん(以下、澤):大学4年の12月に内定を辞退して、1月から就職活動をやり直してエンジニアになっているんですよ。だからメチャクチャな就職活動(笑)。

 

僕が就職活動した1992年は、バブル崩壊元年なんです。前の年に比べたら若干厳しくなっているけれど、翌年以降の厳しさに比べたら就職はしやすい年ではありました。僕が就職活動をしたのはそんな年です。

 

就職先を選べたという意味では、ラッキーだと言えるのですが、後々、僕が本当にラッキーだったなと感じたのは、バブル期の就職じゃなかったこと。

 

バブル期というのは、実態の価値以上の評価が生じている経済状態ですが、人材も同じだと思うんです。そこまでの価値がない人材にもかかわらず、高い給料や高いボーナスをもらえてしまう時期なので、人によってはどうしても自分を見誤ってしまうのではないかなと思うのです。

 

就職活動も同様で、何のスキルも能力もない学生に対して、企業は「あなたには価値がある」というような扱いをしていたわけです。その状態を味わわなくてすんだという点は本当にラッキーだったと思っています。

 

――そんな中、どういったきっかけで内定を断って、エンジニアを選ぶことになったのでしょうか。

澤:就職活動をしていく中で、「これはどう考えても就職ではなく就社だ」と感じるようになったんです。この考え方にどうしてもなじめなくて、僕は「この会社に人生をかけよう」なんてサラサラ思っていなかった。それで内定を蹴ったんですね。

 

なんでエンジニアを選んだのかということはよく聞かれるのですが、積極的にエンジニアを選んだというわけではないんです。「就社が嫌だ」という気持ちからの内定辞退で、そこから就職活動をし直すわけですが、そのときはとにかく「何か」になれればよかったんです。

 

宇宙飛行士であろうとパイロットであろうと、小説家であろうとプロレスラーであろうと、なんでもよかった。だけど、大学4年生の1月からプロレスラーになれる人はいないのが現実で、それで「どうしようかな」と思ったときにしたのが、「僕は何になりたいんだっけ」という棚卸し。どう考えても、遅すぎるのですが(笑)。

 

そのときに思い出したのが、映画『007』のキャラクターのQ(編集部注:主人公のジェームズ・ボンドが使用する武器などを開発するキャラクター)。ジェームズ・ボンドは、Qがいなかったらただの無謀な中年の親父ですからね(笑)。「ジェームズ・ボンドはQのおかげで生きているんだよな」とあるときふと思って、そういう存在に憧れを持ったんですね。

 

そしてもう一つのきっかけが、あるとき出会った一人の社会人の存在です。僕は学生時代、スキューバダイビングをやっていたのですが、あるとき、同じボートに乗っていた社会人の方と仲よくなって、「何をやっているんですか」という話になったんですね。

 

その社会人の方が「SEやっています」と言ったんです。ほかの人と違ってその人は、会社名や業界名を言わなかった。それが1990年くらいです。そのことを大学4年の1月にふと思い出したんですね。『007』のQというキャラクターとSEという職業が僕の中でピタリとはまったんです。

 

それであらためて、SEの募集を探してみたら、あるんです。それまで目に入らなかっただけで。そのうちのいくつかに連絡をしたら声をかけてもらえて、生命保険会社のIT子会社に採用してもらいました。僕みたいなポンコツをよく雇ってくれましたよ、本当に(笑)。

 

「これは差がつくぞ」と思った瞬間

――澤さんの経歴を見ていると、常に時代の一歩先を読んで行動に移しているというイメージがあります。

:よく言われるのですが、それは結果論なんです。先読みなんてしていないです。「面白そう」と思ってやっていたら、気が付くと周りに誰もいなかったというのが正直なところで、いつもそうです。最近は格好つけるようにしていて(笑)、「未来は予測しても意味がない」と言っていますが。

 

エンジニアという職業にしてもそうです。就社活動から就職活動に切り替えて、結果的にそれが先行者特権に化けたというなんですが、これも結果論でしかありません。だって、1993年から1995年までの僕はただの落ちこぼれのポンコツエンジニアですからね。アルゴリズムを音楽のリズムの一種と本気で思っていたくらいですから(笑)。

 

――そんな苦しい状況から浮揚するきっかけのようなものはあったのでしょうか。

:大きかったのは、全世界が初心者になる瞬間に立ち会えたことです。1995年にインターネット時代がやってくるわけですが、誰もがインターネットを使ってWebサイトにアクセスできる時代なんて全世界の誰も知りません。その時代においてはいわば全員初心者、全員素人なわけじゃないですか。そこに立ち会えたのが最高にラッキーだった。

 

直感的に「あ、これだ」と思って、当時50万円くらいするPC(GATEWAY2000)を買ったんです。忘れもしない、Pentiumの133MHz、メモリは32MB。それを買って、6畳一間の会社の寮に持ち込んで、日夜いじっていたんですよ。

 

そのときに会社の人に言われたことで忘れられないことがあります。「家に帰ってまでPC触っているの?物好きだね」と言われたんです。このときに「これは差がつくぞ」と思ったんですね。それで、時間をみつけてはPCをいじり倒したんですね。

 

その後にもう一つのターニングポイントがありました。それは、グループウェアの登場です。あるとき、「ロータスノーツというグループウェアが出たから研究しなさい」と会社のマネージャーから言われました。調べ方から何から何まで自分で考えろと丸投げされたんです。それでソフトやサーバを会社から買ってもらい、テスト環境を構築して、会社の仲のよい人たちとロータスノーツでやり取りするということを始めたんですよ。

 

その後に、ロータスノーツを買収したIBMがコミュニティを作りました。そのコミュニティに参加するようになったんですね。社外のコミュニティに、キャリアのかなり早い時期に入れた。これは大きかったです。コミュニティのおかげで、「世の中には多様な物差しがあるんだ」とか「海外には優秀な人材がゴロゴロいるんだ」とか、いろいろなことを知れました。

 

さらに、コミュニティのつながりの中で、「澤は面白そうだ」と思ってくれたエージェントに出会えたこともキャリアを考えるうえでは大きかったことです。コミュニティを通じて、2つエージェントから声をかけられました。それぞれがIT企業を紹介してくれたんですが、一つのエージェントが紹介してくれたのが、何とロータスノーツのロータスだったんです。もう一つのエージェントが紹介しくれたのが最終的にはマイクロソフト。

 

そのエージェントには、面談の最中にマイクロソフトの前にオラクルを紹介してもらっていて、条件的にはオラクルのほうがよかったので、オラクルに行く気でいました。エージェントに「オラクルに行きます」と言うと、「それでは詳細の書類を持ってきます」と席を外したんです。エージェントが戻ってきた瞬間に気が変わって、「やっぱりマイクロソフトにします」と言ったんです。ここは運命の分かれ道でしたね。

 

――なぜその瞬間、「マイクロソフトにしよう」と思ったのでしょうか。

:条件はオラクルのほうがよかったんです。ただ、マイクロソフトのオフィスが笹塚(東京都渋谷区笹塚)にあった。これに引っかかるものを感じたんですね。

 

――当時、その近くに住んでいたんですか?

:近くに住んではいなかったんですけど、京王線沿線に住みたいなと思っていたんですよ。で、マイクロソフトのオフィスの最寄り駅は京王線・笹塚駅。「マイクロソフトだったら乗り換えなしに通えるな」と。もちろん、マイクロソフトという会社にも魅力を感じていたんですが、それも大きかった(笑)。それで、マイクロソフトに入ることになったんです。

 

若手は「リセットする瞬間を狙え」

画像提供:株式会社圓窓

――波瀾万丈の若手時代を生き抜いてきた澤さんが、いまの若手にアドバイスするとすればどのような言葉をかけますか?

:まず言いたいのは、「リセットする瞬間を狙え」ということです。大切なのは、「リセットがかかっているぞ」と思えるかどうかなんですね。僕で言えば、就職活動時にバブル崩壊というリセットがかかっています。そこで、「就社ではなく就職」に方向展開したわけですが、そのこととバブル崩壊は無関係ではないと思います。「就社はリスクがあるぞ」と心のどこかで思っていたんでしょう。

 

このときはリセットがかかったということに無意識であったと思うのですが、1995年はリセットがかかったからと意識的に行動を変えました。

 

リセットがかかって時代が大きく変わるぞと思って、50万円のPCを買うわけですが、当時の自分にとって50万円は非常に大きな投資なわけです。だけど「この投資は絶対にした方がよい」と思って、PCに関しては湯水のようにお金を使いました。ネット接続の契約は一番高いものにしたし、モデムは常に最速のものを選んでいました。ハードディスクはことあるごとにより性能のよいものに替えていました。

 

リセットがかかったときに行動するためには、常日頃からアンテナを立てておく必要があります。いまで言えば、コロナで全世界的にリセットがかかりました。僕は2020年の8月にマイクロソフトを退職しているのですが、周りからは「なんで辞めるの?」とよく言われました。自分としても辞める理由はとくにない。給料も立場も満足していましたので。だけど、辞める前の何年かはずっと「いま、安定しすぎちゃっているな」「このままいったらミスをすごく恐れるようになるな」とぼんやりとした危機感を持っていたんですね。

 

そんなときに、コロナでリセットがかかった。「いま、明らかにリセットかかっているよな。こういうときは動くに限る」と思って、マイクロソフトを辞めました。

 

――そういった不安定な時期に動くことは、普通だと怖いですよね。

:僕は違うところに怖さを感じていました。ここで動かないことによって、思考が硬直するほうがキャリアリスクだと思って辞めたんです。辞めてみたら仕事のチャンスがたくさん来るようになって、結果的にリセットの波にうまく乗れました。「必ず成功するかはわからないけれど、やってみなければわからないことなら、とりあえずやってみたらいい」というのが若い人へのアドバイスでしょうか。

 

(取材:新田哲史、文:箕輪健伸)

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