私のキャリアの中で最大のトピックは、脳梗塞で2回死にかけたことです。
映画業界に何とか潜り込みたくてアルバイトを始め、転職活動後に社員格でやっと雇われた27歳の終わりの2007年に、研修先で意識を失いました。病名は脳梗塞。
右半身に麻痺が残りながらも一度は会社のご厚情で本社勤務という形で社会復帰を目指すことが許されましたが、それから約3年強が経ったころに2度目の発作が起こりました。そこで特に心が思いっきり折れてしまって、長期療養から2011年に退職。完全に人生がリセットされてしまいました。
現在は、映画ライターとしてこの2〜3年でかなり軌道に乗ってきた実感も得られるように。
それでも気がつけば、最初に倒れてから15年が経っていました。
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30代に入ったところで人生は白紙に
2000年代前半、私は就職氷河期の末期世代だったうえに間口の狭い映画業界を志したことで、20代半ばまでアルバイト契約で雇用される日々を送っていました。
働いていた川崎の映画館は映画館単独としては当時、観客動員・興行収入の双方において圧倒的な数字で日本一に君臨。仕事としては接客だけでなく、映画館経営の内部に踏み込んだ業務のアシスタントだったためやりがいはありました。
ただ、会社の経営規模が大きくなかったこともあって雇用形態・給与形態はどうしても制約があったため、約5年働いたアルバイトを退職後、社員としての就職を目指しました。
幸いにして一社目で採用が決まり、社員として劇場勤務をすることに。ところが……2007年の1月、研修先の劇場でミーティング中に倒れました。
記憶と記録を繋ぎ合わせて
厳密にいえば、当時については覚えていないことがほとんどです。倒れて、病院に運び込まれて48時間ぐらいのことは様々な人の記憶と、諸々の記録を後追いで繋ぎ合わせて形にしているというのが正直なところです。
倒れてから2か月ほどの入院生活から4か月ほどのリハビリ通院を経て、日数と時間を制限したうえで本社勤務という形で社会復帰させてもらいました。
サービス業を経験されている方はすぐにイメージができるとは思いますが、業態的にどうしても早朝出勤のパターンもあれば深夜に出勤してオールナイト営業に従事することもあり、病気をした身体には対応しきれないという病院側のジャッジを受けました。
そこで基本的に朝〜夕の本社勤務となり、徐々に時間と日数を増やしながら2年弱でフルタイム勤務となりました。
ところが、2010年に再発。(脳梗塞といった疾患は再発の可能性があります。10年以上ありませんが、当然3回目もないわけではありません)
再発は身体以上に精神的に大きく揺さぶられ、結果として文字通り心がポキッと折れてしまいました。(今も身体障碍者ではなく精神障害で手帳が交付されています)
そして1年ほどの療養休職を経て退職。私は、5年弱の間に立て続けに2度も人生を強制リセットされてしまいました。
20代で倒れた若者の姿を描いている短編映画『歩けない僕らは』は、描写がかなりリアルで、一度ご覧になるとイメージしやすいかと思います。
社会復帰ではなく、社会との接点を求めて
人生が2度も強制的にリセットされて本当に何もなくなってしまったとき、最初の1〜2年は行動を起こしたいという意欲が一切出ずに、まさにニート生活でした。
あまり誇れる話ではありませんが、私は44年の人生で実家を出たことがなく、最低限の衣食住の保障がされている状況でした。この状況もまた当時と今の心理状態に少なからず影響を与えていたと思います。
たとえば“食うに困る”状況であればもっと何かに必死だったかもしれませんが、最低保障があることを甘受した私はただただ心身を休める日々を送っていました。
それでも最初の1〜2年を過ぎてくると少し“意欲”のようなものが出始めました。とはいえ心身の持久力が欠落している中で、できることはおのずと限られていきます。
きっかけはすがり続けた“映画”
そんなとき、きっかけになったのはやはり映画でした。
正直な話、もう気力体力の面でも新規開拓する推進力はなく、映画にすがり続けざるを得ませんでした。(映画以外に逃げ場がないという感じでしょうか)
“ちょうどよい”というと語弊があるかもしれませんが、ちょうどそのころCS・BSテレビ局主催の映画クイズ王という企画が続いていました。
オタクの知識比べとして私にとってはほどよい刺激となり、また成績の面でも上位に入れたことも気持ちを豊かにしてくれました。この流れで民間参加枠を活用して映画祭の審査員をさせてもらうことに。
最も大きな転機となったのは、東京国際映画祭の審査員の経験です。当時、大きなスポンサーとして東京国際映画祭に参加していたWOWOWが“WOWOW賞”という映画賞を主催していて、契約者から審査員を選ぶというものでした。
面接を通過して2週間、映画祭に通い続けた後にオブザーバーだった人物から「村松さんは業界のキャリアがあるのだから、この経験を点で終わらせずに、何かに繋げたほうがよい」というアドバイスをいただきました。(実はこの人物は、前述の映画クイズ王で何度もご一緒した方でもありました)
そんなアドバイスを得た私は、心身の状況に合った選択肢を模索するように。さまざまに調べたり少し視野を広げてみたりしたときに、Webメディアの勃興を再認識することになりました。
基本的に在宅で可能なWebライターであれば、今の状態とキャリアをうまく折り合えるのではないかと思いました。
低空飛行ながらも軌道確保
そして今は映画会社に試写に行き、自宅で記事を書くというスタイルで活動しています。
まったく動けないわけではありませんが、やはり不自由な身体のため杖を片手に映画会社や映画館に出向く日々です。今では“外出時の杖”がちょっとしたトレードマークです。(とくに今はマスクで顔がわからないので、よい目印に)
またコロナ禍を経て、オンライン試写という形式が一気に普及したことで、私のリズムで作品をみられることも助かっています。
ちょっとした後押しを得られたことと、ここぞというときに一歩引いて俯瞰で周囲を眺めてみることができたおかげで、2023年の今はなんとかWeb系映画ライターとして軌道に乗れています。
積極的な社会復帰というのはとてもハードルが高いものですが、“社会との接点探し”くらいに気持ちを緩めたときに、意外と機会は得られるのかもしれません。実際に、今も“接点探し”を続けているという心持ちであります。
病気や怪我は誰しもが経験するもの
大きな病気や大きな怪我は誰しもが経験することだと思います。それゆえに人生設計が大きく変わってしまう人もいるでしょう。
危機管理能力の有無は危機に瀕した時にこそ明らかになると言われますが、私の場合は全く機能しなかったのではと思っています。本当にしんどい時は実は何もできない、他者の助けが必要だったというのが正直な体験でした。
必要なことは、新たなマイペースをいかに築き上げられるかということだと思います。この答えにたどり着くまでに最初に倒れてから15年もかかりました。
その間にいろいろ諦めることもありました。3度目の発作を考えると結婚は難しいでしょうし、運転免許もマイナンバーカードを作ったので返納。
人生を強制リセットしてくるような事柄については、長い時間を費やすつもりでいると、変に焦らずによいかもしれません。
私は27〜28歳になるタイミングで最初の発作を起こし死にかけました。そのため、そのころをゼロ地点として再カウントするようになり、最初の発作から27〜28年後の50代半ばまでは生き残れた時間(=余生)と考えています。
とりあえず50代半ばまでに“余生の中での接点で探し”を終えて「新たな人生ができていればよいな」というくらいの心持ちで今を過ごしています。
(文:村松健太郎)