Tech Team Journal読者のみなさま、はじめまして。少年Bと申します。介護士から建築士を経て、フリーライターをしています。
と自己紹介をすると、よく「すごいキャリアですね!?」とびっくりされます。自分で言うのもなんですけど、たしかに変わってますよね。今回はそんなわたしのキャリアについて話をさせてください。わたしはかつて、「次期社長」として家業を継ごうとして、失敗した過去がありました。
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目次
消去法で選んだ介護士という仕事
最初に介護士という仕事を選んだのは、ただの消去法でした。別に、介護を目指したわけじゃなかったし、「人の役に立つ仕事をしたい!」などという、優しい気持ちなんかこれっぽっちもありはしませんでした。
人間関係がうまくいかず、周囲とトラブルを起こしてばかりだった高校時代のこと。このころにはすでに「わたしみたいな性格の人間が、ひとつの会社に定年まで勤めるのは無理だろう」と悟っていました。しかも、この成績では優秀な大学に行くなんて、夢のまた夢。となると、①転職が容易で、②技術的な裏付けを得られる、または資格が必要な職業がいいだろう、と考えたんです。
となると、人手不足で、売り手市場の業界が望ましい。そこで考えたのは保育士か介護士でした。ただ、少子高齢化が進んでいる現状を考えると、介護士のほうが将来的に需要が高まるだろう、と踏んだんですよね。
結果的に、この考え方は当たっていました。慢性的な人手不足に悩む介護業界では、常に猫の手も借りたいほど。当然、即戦力なんて喉から手が出るほどほしいわけです。20代のわたしは行く先々で人間関係を破壊しつつも、経験年数をアピールすることで転職は毎回大成功。転職するたびに年収も上がっていきました。
仕事自体にはさほど興味はなかったし、上がったとはいえ年収は平均以下でしたが、自分の能力や性格、欠点を考えたときに、これ以上のものが得られるとは思っていませんでした。しかし、そこに転機が訪れます。7年間付き合った彼女との結婚です。
できた家業、狙う一発逆転
当時のわたしは、一家の大黒柱として、よき夫、そして将来はよき父になりたいと考えていました。子どもにはママとなるべく一緒にいてもらいたい。でも、介護士の年収では、当然共働きが前提になります。もっと稼がないと……。そんな中、わたしの母親が以前から付き合っていた建築会社の社長と再婚し、家業ができることになりました。
「お前さえよかったら、ぜひ家業を継いでもらいたい」
その申し出に悩みました。資格試験を受けて、ケアマネジャー(介護支援専門員)にキャリアアップするべきか、義父の会社を継ぐべきか。安定を取るならば、介護の経験を活かせるケアマネジャーでしょう。地元でずっとうまくいかなかった人間が、地元に戻って未経験の仕事をイチからやり直せるものか。冷静に考えれば、無茶にもほどがあります。
でも、ここでがんばれば、妻にも楽をさせてあげられるかもしれません。社会に出て7年、「興味のない仕事」でもそれなりにこなしてきた自負もあります。結婚を機に「人の親になるにふさわしい、ちゃんとした人間にならなければ」という気持ちも強くありました。
大いに悩んだ末、「やればやるだけ返ってくる」という、建築会社の次期社長を目指すことにしました。ケアマネジャーでは到底手に入れることのできない高収入や「社長」というステータスを掴むチャンスが転がってきたのです。自分でも大きな博打だとは思っていたものの、この生活を抜け出すチャンスはここしかない! とも思いました。
いま冷静になって考えてみると、これってちょっと怪しげなオンラインサロンに入って、一発逆転を目指す思考と似てますよね。違いは相手が悪意のある第三者か、善意の身内かというだけ。
当時のわたしは自分の能力や判断力を過信していたし、「俺はこんなところで終わるような人間じゃない」「まだ本気を出していないだけ」という、根拠のない自信とくだらないプライドがありました。でもそういうのって、そのときは気付かないんですよね。
砕かれた期待、突き付けられた現実
いざ転職してみると、想像以上の困難が待ち受けていました。わたしの入った会社は、注文住宅を専門に扱う、いわゆる地場の工務店。自分が職人として身体を動かすわけじゃなく、さまざまな外注の職人さんに指示を出して、お客さんの望む家をつくるのが仕事です。いわゆる「現場監督」というやつですね。
入社から半年経ち、1年が経ち、徐々にひとりで任される現場も増えてきました。でも、何をすればいいのか全然わからない。現場監督は現場の責任者です。何もわからないのに、確認事項だけはどんどん降ってくる。しかも、注文住宅やリフォームの現場は毎回違います。同じことなんて、ほとんどありません。1日のスケジュールが決まっている介護施設では、何も考えずに身体を動かすだけでも何とかなりましたが、建築は興味がなくてもできるような仕事ではなかったんです。
まず、職人さんの使う言葉がわからない。「もうちょっとわかりやすく教えてください」なんて言える雰囲気じゃありません。何かあるたびに、頭はパニックです。先輩についているときに、もっとしっかり見ていれば……なんて思ってもあとの祭り。いつしかわたしはただ、職人さんの言葉を聞いては先輩に答えを乞うだけの、伝書バトのような存在になっていました。いや、意図を正確に伝えられず、伝言ゲームのように場を混乱させていただけのわたしより、伝書バトのほうがはるかに役に立ったことでしょう。
そういう空気は職人さんにも伝わります。「あいつに言ってもわかんねぇから」。いつしか、自分は連絡役にすらならず、自分の現場が自分の外で進むようになっていました。その場にいる価値のない人間。それが当時のわたしだったんです。
それは営業でも同じでした。現場監督だけではなく、社長として仕事を取ってこなくてはならない。現場がダメならとお客さんのところにも何度も行かせてもらいましたが、お客さんの「こうしたいんですけど、できますか?」の言葉に、首を縦に振ることができませんでした。だって、できるかどうかなんてわかんないんだから。
「責任を取る」ことの怖さに、身が竦んだ
「お前は何を怖がってるんだ、とりあえず自分で判断するんだよ。ダメだったらごめんなさいすればいいんだから」
当時、先輩に何度も言われた言葉です。でも、わたしはそれができませんでした。周囲からみると消極的でもどかしいと思われていたかもしれません。でも、それができない理由もありました。
住宅は扱う金額が極めて大きく、ちょっとしたリフォームでも数十万から数百万はかかります。新築であれば1軒あたり数千万円が動きます。これが、めちゃめちゃ怖かったんです。自分の勝手な決断のせいで大損失を出したら、会社が倒産してしまうかもしれない。義理の父や、社員のみんなを路頭に迷わせてしまったらどうしよう……。そう思うと、なかなかチャレンジできませんでした。
営業でも、できもしないことを「できます」なんて言ってしまい、長年のお客さんの信用を失ってしまったら……。そう思うと、怖くて身体が動かなくなってしまいました。一事が万事、そんな有様だったため、周囲からの期待や信頼も地に落ちました。自分が決めたことなんだから、と半ば意地だけで建築士の資格も取りましたが、結局は心身を崩し、尻尾を巻いて逃げ出すことになってしまいました。
あれこれ書きましたが、結局のところは「自信のなさ」と「興味のなさ」だったんでしょう。あるいは、自分の手で責任を取る勇気を持てなかったんだと思います。そんな人間に社長になるような資格なんて、最初っからなかったんだなぁ、といまになって思います。義父は義父なりにいろいろと手を尽くしてくれたのですが、せっかくお膳立てしてもらった成功への道を、わたしは自分で踏み外してしまったんです。
捨て身で得た「強さ」
「フリーランスはすべて自己責任」と言われます。責任を取れなかった男が、どうしていまフリーライターとして生きているんでしょうか。じつは、わたしには仕事以外にも手放したものがもうひとつありました。家族です。
7年付き合った最愛の妻は、わたしが転職してすぐにメンタルを崩してしまいました。原因は、慣れない土地での、慣れない生活。それがきっかけで義実家との関係が悪化し、会社に怒鳴り込みにくるなど、生活すべてに支障をきたすようになってしまいました。最終的に、結婚わずか1年で別れることになってしまったんです。
そんな心身ともに最悪の状態でも「次期社長」として働き続けることができたのは、「あのとき、ケアマネジャーを選んでいれば……」という思いを振り払い、失ったものから目を背けたかったからのように思います。もっとも、わたしが早く辞めていたほうが全員幸せになっていたのかもしれませんが……。
そうして、わたしは自らの考えの甘さからすべてを失い、会社を辞めました。失意のなか、たまたま書いていたブログをきっかけに、徐々にライターとしての仕事が入るようになってきました。でも、わたしにはもう守るべきものはありません。
初めてのライター業は手探りでした。そのテーマの記事を書けるのかも、きちんとインタビューができるのかも、そもそも締め切りを守れるのかさえもわからない。冷静に考えると、状況は建築会社のころと何も変わっていませんよね。
でも、このときのわたしは「ケツをまくっていた」んです。最悪、依頼を完遂できずに飛んでもいいとさえ思っていました。だって、それは自分だけの責任だから。こんなわたしに頼んだクライアントの目が節穴なのが悪いんだ。
「お前は何を怖がってるんだ、とりあえず自分で判断するんだよ。ダメだったらごめんなさいすればいいんだから」
捨て身の強さとでも言いましょうか、ここで初めてこの言葉が理解できたような気がしました。
責任を手放したからこそ、キャリアが拓けた
独り身だから、仕事ができなくて貯金を食いつぶしてもいい。会社じゃないから、どれだけ失敗しても上司や同僚に迷惑をかけることはない。
どう考えても最悪の思考ではあるんですが、開き直りが状況を打ち破っていきました。初めてのジャンルでも「書けます!」と勢いよく返事をして、受けてから「どうしよう……」と頭を抱えつつも、ない知恵を絞りだしては書いていく。フリーランスとしての自覚や責任といったものは、かけらほども持ち合わせていませんでした。でもだからこそ、大胆なチャレンジができたような気もします。
もちろん、逃げ道も用意してありました。介護福祉士の資格です。最悪、ライターとして生きていけなくても、介護士としてならまたどこででも働ける。そういう計算もありました。
「これしかない」と退路を断って臨んだ建築会社での失敗を活かし、逃げ道を用意した上で、ダメもと・ヤケクソの気持ちで挑戦したライター生活も、今年で5年目になりました。今のところ、次期社長よりは向いてそうな気がしています。
「守るべきものができて強くなった」と言われることは多いでしょう。でも反対に、「守るべきものがあるから弱くなる」こともあります。少なくとも、わたしはそうでした。家業や家族といった「責任」を手放したからこそ生まれたのが、わたしの「フリーライター」というキャリアです。
キャリアに悩む人たちに「あなたたちも大事なものを捨てろ」と言う気はありません。でも、どうしても前に進めなくて悩んでいるとき、あなたの身を縛っているのが「責任」だとしたら。そこから自分を解放してあげることで、見えてくる道もあるかもしれません。
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(文:少年B)