こんにちは、ライターの少年Bです。介護士から建築士を経て、フリーライターとして活動しています。今回は建築会社で「クビ」になった経験から学んだ、わたしなりの「徹底的に無理を避ける仕事論」について語らせていただこうと思います。
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出向先は、超ブラック
前回、建築会社の次期社長として期待されるも、結局モノにならなかったお話を書かせていただいたんですが、そのころに学んだことは他にもあります。建築会社に入って3年が過ぎたときのことです。殻を破れずにいたわたしに義父は、埼玉県の工務店に行き、3年間の修行をするよう命じました。
修行先では建築の基礎をイチから身に付けるべく、ひとりの大工見習いとして働くことになりました。修行先の社長には「うちに来た人間は、みんな伸びる。だからお前も絶対に大丈夫だ!」と言われ、期待に胸を高鳴らせて飛び込んだのですが、そこで目にしたのは、人を人とも思わないブラックすぎる環境でした。
朝から晩までの長時間労働にパワハラ、さらには暴力……。平成ももう終わろうとしているのに、まだこんな会社があるのか!? と、驚きを隠せませんでした。ただ、わたしはあくまでも頼み込んで勉強させていただいている身。「その考え方はさすがにヤバくないですか? 時代に合わせてアップデートしましょうよ」だなんて、思っていたとしても言えるはずがありません。たとえどんなに理不尽で納得できないことでも、わたしに与えられた言葉は「はい」と「Yes」だけでした。
とはいえ、嘘をついたり、人に合わせたりすることが苦手なわたしは、きっとことごとく表情に出てしまっていたんだと思います。修行先での人間関係が最悪の状態になるのに、時間はかかりませんでした。
地獄の環境は、1年で「クビ」
そこからはもう地獄でした。現場に向かうためにクルマを走らせていれば、制限速度にもかかわらず、隣の親方から「チンタラ走るな」と罵声が飛んでくる。「30歳から始めるんだから、寝る間も惜しんで働くんだよ!」と、「自発的な」休日出勤や深夜残業を求められ、肝心の仕事は「目で盗め」と教えてもらえず、そのくせ「仕事がなってない」と鉄拳制裁をされたことさえありました。
睡眠不足でフラフラになっていたら「注意力が足りねぇ」と怒鳴られ、汗だくで働いていれば「やってるフリだけ上手だな」と嫌味を言われる。自分のすべてを否定され、気付けば自分がいま何を言っているのか、何をやっているのかもわからない状態になっていました。完全なる鬱です。その結果、約束の3年を待たず、わずか1年で追い返されることになってしまいました。そう、実質「クビ」だったのです。
「うちに来た人間は、みんな伸びる」と言われていたはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか……。そんなわたしの心を見透かしたのか、社長が言います。
「前にもよその工務店から修行に来たやつがいたけど、お前と同じでダメだった。馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。うちの厳しい指導について来られないやつは、どうしようもないな」。
そこで初めて気付きました。なるほど、この人たちはうまくいったら自分たちのおかげ、ダメだったらそいつのせいなんだな、と。徹底的な他責思考というか、自分の側に問題があるとは、これっぽっちも思っていなかったんですね。ちなみに、義父も修行先が厳しいとは聞いていたものの、まさかこんな会社だとは知らなかったそうです。
追い打ちをかけた、SNSでのトラブル
鬱になった原因は、それだけではありませんでした。息抜きにと始めたSNS。縁もゆかりもない埼玉県には友達もおらず、ほかのユーザーと趣味の音楽の話をする時間が、心の支えとなっていました。それに、SNS上ではあくまでも匿名のいちユーザー。責任や重圧も、会社での白い目線も関係なく、ただ「少年B」というひとりの人格だけがそこにありました。
しかし、ときを同じくして、そんな心のオアシスであったはずのSNSでもトラブルを起こしてしまいます。朝から晩まで、会社では自分を全否定され、深夜には自分を責めるエアリプがタイムラインに流れてきます。
頭がおかしくなりそうでした。あのとき、もう少しだけ勇気があれば、たぶんわたしは死を選んでいたと思います。それを選ばずに済んだのは、自分の臆病さと、わずかながらもわたしを心配し、応援してくれるフォロワーがいたからだと思います。
周りの連中はクズばっかり。どうしてわたしばっかりこんな目に遭うんだ……。失意のなか、そう嘆いているときに、ふと思ったんです。「もしかして、わたしの側にも問題があるのかもしれない」と。
気付いた欠点。「自分の好きな」自分を目指して
修行先でだけなら、その会社の問題ということもある。でも、立て続けに別の場所で、しかも匿名のSNSでまでトラブルが起きるのなら……。「相手が悪い」と思いたい。でも、冷静に考えてみると、自分のほうにも何か問題があったのかもしれません。
今さら彼らに受け入れてもらおうとは思いません。でも、今後出会う人たちにまで同じように嫌われたくありません。そこで、徹底的に自分を見つめ直しました。
わたしはもともとおしゃべりな上に皮肉屋で、毒舌芸やキツいツッコミを使って友達とコミュニケーションを取ることが多かったんです。でもそれってどんどんエスカレートするし、人を傷付けてしまうことも多々あったな、と大いに反省しました。
そこで、人を否定しない、愚痴や悪口を言わない、一方的に話しすぎない、自分の好きなことだけを話すのではなく、相手と楽しい会話をするように心がける……。自分が「こういう人と仲良くなりたいな」と思えるような人物像を作り上げていきました。
また、わたしはアスペルガー症候群を持っており、場の空気を読むのも苦手だったんですが、相手の言動から性格を読み取り、望まれている言葉を返すように努力をしました。かつては「できないことはしょうがないだろ」と思っていたんですが、空気を読める読めない以前に「自分はできないんだから、人が合わせてくれて当たり前」という態度そのものが問題なのだと気付くことができました。
こうした性格のリセットは、今も完璧にできているとは言いがたいですが、当時と比べれば、だいぶ改善できたような気がしています。
性格を変えたら、人生が変わった
性格のリセットは、仕事にも繋がりました。縁あって、ライターとして仕事をいただけるようになったんですが、わたしの仕事は基本的に紹介。友達のライターや、以前仕事をいただいた編集者さんからお声をかけていただくことがほとんどです。
ときには「SNSを見ていて、いつかぜひ一緒にお仕事をしたいと思っていました」と言っていただけることもありました。あれだけトラブルを起こしまくっていたこのわたしが、です。
もしあのとき、必死で性格を変えようとしなければ、今でもわたしはSNSで仕事の愚痴を垂れ流し、毒舌芸と称して、誰かのことを強い言葉で批判しまくっていたかもしれません。……考えるだけで怖いですね。
同時に「性格は変えたいけど、嘘はつかないようにしよう」とも決めていました。心にもない嘘は、必ず見抜かれます。「その考え方、ヤバくないですか?」と思いつつ、必死で自分を殺してイエスマンになろうとしていても嫌われた、あのころの自分のように。
修行先の会社で、ひたすら無理を強要されたことで、鬱になってしまったことも影響していました。だから自分にも嘘をつかず、ちょっとずつ理想の自分に変えていこう。そう思ったことで、無理せず理想の自分に近づくことができました。
ロールモデルは、なくてもいい
「無理をしないこと」を最優先にしたことで、気付いたこともありました。それは「ロールモデルはなくてもいい」ということです。
仕事において、ロールモデルを設定する人は多いでしょう。でも、そういう目標にするべき人たちって、だいたいめちゃめちゃ仕事ができたり、才能の塊だったりすることがけっこうありませんか? しかも、すごい人に限ってものすごい努力をしている。だから尊敬するんですよね。
そういう人の姿を目の当たりにするたび、「自分にはとても真似できないな……」と思います。だって、わたしにはそんな才能はないし、努力するのも嫌いだから。追いつくなんて夢のまた夢です。かつての自分は、優秀な人たちに憧れの気持ちを持ちつつも、永遠に近づけない自分に対して、自己嫌悪と諦めを抱いていました。
でも「無理をしない」と方向転換をしたことで、目指すものが変わりました。それは「絶対にああはなりたくない」という反面教師を持つこと。それはたとえば、修行先の人々であったり、SNSで中傷をしてきた人であったり、学生時代の教師やクラスメイトであったりしました。
すごい人になろうとするのは大変です。でも「ああはなりたくない」人物像から、全力で回避をするのは、そこまで難しくありません。「全部のテストで100点を取る」のは難しいけど「0点だけは絶対に取らないようにしよう」と思って勉強すれば、意外とそこそこの点数は取れたりしますよね。
そうやって無理せず適度にがんばっていれば、超一流にはなれないかもしれないけど、1.5流ぐらいにはなれるはずです。野球なら、経験の浅いピッチャーが日本一のエースに投げ勝つことだってありますよね。最悪の「二軍落ち」さえ回避できれば、チャンスは巡ってくると思うんです。
無理をすると、人にも無理を求めてしまう
「無理をしない」ことは、きっと今後のキャリアにも影響するんじゃないかと思います。将来、もし自分が誰かをマネジメントする立場になったときのことです。
自分に無理をさせてきた人は、人にもそれを求めます。それ以外に勝ち抜く方法を知らないからです。あの修行先の社長もきっと、一生懸命自分に無理をさせてここまでやってきたんでしょう。だから、人にも理不尽なまでの無理を求め、それができない人は切り捨ててきたんだと思います。これまで頑張ってきた自分の努力を、間違いだと思いたくないからこその他責思考なんでしょうね。
それはかつて、仕事の担い手が多かった時期なら、「数多くの有象無象の中から、やる気と才能のある優秀な若手を選抜する」という効率のいい手法だったかもしれません。どれだけ多くの犠牲があろうとも、そこからわずかでも優秀な人材が出てくれば「勝ち」だからです。
でも、いまのご時世ではそれはパワハラです。仕事の担い手も少ない現在、大事なのは「どれだけ多くの人を伸ばせるか」。全員を100点に持っていくのは無理にしても、大多数を80点まで導くような指導が求められるのではないでしょうか。
数少ない人材に、いかにしてがんばってもらうか。そのためには無理を強要せず、心を楽にして前向きに仕事に取り組んでもらうことが一番のような気がしています。
無理の強要を、肯定してはいけない
埼玉の工務店で、地獄のような1年を過ごし、「クビ」になったことをきっかけに生まれた「無理をしない」仕事論。そういう意味では、彼らのおかげで自分は変わったのかもしれません。
でも、わたしは絶対にそれを肯定したいとは思いません。一歩間違えれば死を選んでしまうほど、心身ともに追い込まれたんです。そんな彼らに対して、死んでも感謝なんかしてやるものですか。
「あのつらい経験が今に生きてる」という思い込みは、たしかに当人としては楽になるし、サクセスストーリーとして心地いいんですよ。でも、彼らの振る舞いを肯定してしまったら、自分も他者の成長を促す際に、同じことをしなければならなくなります。
臆病だから死を選べなかったのも、そこで反省してじっくり考えることができたのも、あくまで「あれに耐えて成長できた自分がすごかった」んです。そう思うことできっと、負の連鎖を断ち切ることができると思うんですよね。
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(文:少年B)