あなたは「何世代」と呼ばれていますか?

「ゆとり世代」とは、1987年4月2日生まれから2004年4月1日生まれの世代とされている。ちなみに私は、1993年生まれ。ゆとり世代ど真ん中だ。

「ゆとり」とは、2002年に施行された完全学校週5日制の「ゆとり教育」からきている。ゆとり世代について調べると、ストレス耐性がない、自主的に行動ができない、競争意識が低いなど、皮肉めいたような特徴がどんどん出てくる。

だが、そんなゆとり世代もいつの間にか社会では中堅的立場にいる。

ゆとり世代は、社会のなかで何と戦っているのだろうか。

ゆとり世代とはいったい何なのか。

今回は、そんなゆとり世代に焦点を当てたヒューマンドラマ「ゆとりですがなにか」から、ゆとり世代を紐解いていこう。

まったく“ゆとり”がない登場人物たち


物語の主人公は、ゆとり第一世代と言われている1987年生まれの男3人組だ。

実家が酒屋の坂間正和(岡田将生 )、小学校教師の山岸ひろむ(松坂桃李)、風俗店の呼び込みをしている道上まりぶ(柳楽優弥)。ひょんなことから出会った3人は、「これだからゆとりは」と周囲に揶揄されながらも、コミカルに日々を生きていく。

何かと「ゆとり世代」と括られがちな3人だが、彼らの生活を追っていくと実はまったく“ゆとっていない”のだ。

主人公・正和は、「鳥の民」という焼き鳥屋の社員である。しかし、成績不振により営業から店舗担当へと異動することに。さらに部下からはパワハラで訴えられるという悲惨な状況に陥ってしまう。

「イメージしてねえよこんな社会人生活!なあ!でもやるよ兄ちゃんは、得意先回って!頭下げて!焼き鳥焼いて!年上のバイトにこき使われて!部下に笑われて!意地でも辞めねえよ!今辞めたらなんも得るものねえから!元取るまで辞めねえよ!だからお前も辞めんな!元取るまで辞めんな……」

このお前というのは、就活中の正和の妹・ゆとりのことである。このセリフは妹に向けて言いながらも、正和は自身に言い聞かせているように感じる。

会社で働いた経験がある人なら、一度は考えたことがあるかもしれない。自分はなんのために働いているのか。さらに、特別やりたい仕事をしているわけではないという人は、余計この壁にぶつかるのではないだろうか。

正和は数々の辛酸を舐めながらも「元を取るまで」鳥の民を辞めないという。正和の言う“元”とはなんだろうか。ドラマ終盤で正和はその答えを明かしているのだが、それはぜひ作品を見て感じてほしい。答えは視聴者である私たちの日常のそばにも、絶対に存在しているものだからだ。

そんな正和の生き様を見ていると、私たちもどこに向かって頑張ればいいのかが少しわかってくる気がする。

ちなみに“ゆとっていない”のは、正和だけではない。

風俗店の呼び込みをしているまりぶは、名門の国立大学を目指し“11浪”中だ。

「すげえな、入れそうな大学入って、入れそうな会社入って、辞めずに続けてんだ。だってゲームで言ったらレベルアップしねえで何回も何回もやってるわけじゃん、余裕でクリアできるステージを。無理だわないわその才能、だからこんな暮らしなんだよ」

まりぶはまりぶで、自分の人生と戦い続けている。3人の年齢は29歳。さらにまりぶは妻子持ちである。そんな状況で、風俗の呼び込みをしながら11年間大学を目指し続けている。定職に就いている正和と山路に対してギャップを感じつつ、自分の生き方を必死に模索しているのだ。

それぞれがそれぞれの世界と戦っているようすが伝わってくる。この姿の、どこにゆとりがあるというのだろう。

「世代で見てほしくない」という想いに責任を持つ


3人は周りから「ゆとり世代」と言われつつも、同時に下の世代を育てていかなければいけない立場になってくる。

小学生教師の山路のもとには、教育実習生の佐倉悦子がやってくる。あるとき、山路のクラスでは生徒によるいじめ疑惑が浮上した。ネットの知識で解決しようとする佐倉に対し、「僕やあなたにとってはたかが1か月の研修だけど、あの子たちにとっては一生を左右する1か月かもしれなくて、そんな重要な1か月を、ネットの知識なんかで答え出してほしくないし、いい先生じゃなくていいんで、いい人間になってください」と、先輩として想いを伝えた。

「ゆとり世代」の3人もまた、上の世代と同じように、新たな世代に戸惑いながら向き合っているのだ。

かくいう私も、自分より年下の世代を話題にあげる際は「Z世代」と言ってしまうことがある。それは、私たちの世代と“違うところ”があるからだ。いままでは上の世代から“違う人間”という目で見られている側だったが、いまとなってはその気持ちも少しわかってしまう。

主人公の正和には、宮下あかねという交際相手がいる。あかねの父は、厳格な佐賀生まれの男だ。

「正和くん、わしら若い者を見ると無条件に『負けた〜』『こりゃ敵わん』って思うばい。君らは勝ったつもりはなかとでしょうが、勝手に劣等感、感じるばい」

どうして私たちが「ゆとり世代」と言われるのか、すべての理由がこの言葉に詰まっているように感じた。自分たちに比べて下の世代は、時代により順応しているようにみえる。自分たちより優れている人間は怖い。怖い相手には「なんとか世代」という名前をつけて、近寄ろうとしないのだ。そしていつの間にか私たち「ゆとり世代」は、そうして怖がってしまう側の気持ちもわかってしまう年齢になっていた。

だがこの物語の人物たちは、不器用ながらも相手を理解しようともがく姿を見せてくれる。

山路は、自身のクラスで思春期についての授業をおこなっていた。

「はたして、完璧な大人っているのかな?って先生、思います。心の思春期は生きている限り、続きます」

「大人も間違える。だから他人の間違いを許せる大人になってください」

なんとか世代とレッテルを貼って線引きをする人たちは、相手をカテゴライズすることで、自分は間違っていないと安心したいだけなのだ。

では、「ゆとり世代」という同じレッテルを貼られたこの3人はどうなのだろうか。同じレッテルとは言い難いほど、性格も考え方もまったく違う。それでも自分なりに社会と向き合い、なんとか日々を生きている。

「クズでしょう!俺も山ちゃんも、あんたの息子も。だけど、みんな違う、クズだけど、それぞれ違うクズなんだから『ゆとり』なんて言葉で括らないでください」

「ゆとり世代」がなんなのかなんてことは本当はどうでもよくて、もっと大事なことは正和の言うとおり、世代にとらわれず一人ひとりに向き合うことなのではないだろうか。

山路の言うとおり、世代で括って卑下するのではなく、認めて許し合うことなのではないだろうか。

上の世代と下の世代に挟まれた私たちだからこそ、このメッセージに責任を持たなければいけない気がする。

この3人は、わからない相手を世代という言葉で括り、遠ざけようとはしない。不器用ながらも相手のことを必死にわかろうとする。恥ずかしげもなく。世代なんていうレッテルはこの3人からするととてもくだらなくて、ちっぽけなことなのだろう。

「ゆとりですがなにか」?

今日もこの世界のどこかで、正和や山路やまりぶが、いろんな世代にもみくちゃにされながら、がむしゃらに日常を生きている。それを知るだけで、私も明日を頑張ろうと思う。そこに世代の壁は感じない。

(文:はるまきもえ

― presented by paiza

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