アーティストに学ぶ「遠回りキャリアが生んだ新表現」|川瀬巴水編

文明開化によって西洋文明が持ち込まれて以降、急激な変化の時代を迎えた日本。川瀬巴水(かわせ はすい、1883〜1957年)は浮世絵の技法と西洋的な遠近画法を融合させることで、新たな版画表現「新版画」の旗手として活躍した。その叙情的な風景表現は現代でも国際的に高い評価を受け、海外では葛飾北斎、歌川広重と同等の人気を持ち、名前の頭文字から「3H」と並び称される。また、スティーブ・ジョブスは巴水の作品を愛し、熱心なコレクターであることも知られている。

今なお世界的に高い評価を得る新版画の大家は、どのようなキャリアを歩み、そこでなにを得たのか。本稿では巴水のキャリアでの試行をたどり、そこから見出された表現・技法のあり方について紐解いていきたい。

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宿命によって閉ざされ、時代の狭間で開かれた絵師への道

川瀬巴水「旅みやげ第二集 『佐渡相川町』」
川瀬巴水「旅みやげ第二集 『佐渡相川町』」(大正10年=1921年)、木版 多色摺、26.3×39.1cm、東京国立博物館蔵 出典:国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-9116?locale=ja)※以下同連作のURLは省略

川瀬巴水は1883年(明治16年)、東京の組紐物職人の長男(本名:文治郎)として生まれた。幼少より日本画に親しみ、14歳のころには円山派最後の巨匠である川端玉章の門下である青柳墨川から筆法の手解きを受ける。本格的に絵師になることを望むが、1年ほどで親戚の反対にあい家業の手伝いに専念することになった。

「紐組物」とは着物の帯留など、絹や布を組み上げた伝統工芸のこと。家業だけでなく技法の継承などの思惑もあったのだろうが、長男として生を受けた宿命に従い、巴水は渋々跡継ぎ候補としてのキャリアに進むことになる。それでも、19歳のころには「家業を継ぐこと」「趣味道楽の範疇におさめること」を条件に絵を学ぶことが許され、日本画家の荒木寛友に師事した。

しかし、近代化の波は伝統工芸にも深刻な影響を与えていた。西洋からもたらされた産業機械による製品の大量生産化や洋服の普及などにより、組紐物の需要は激減。さらに川瀬家は日露戦争(1904〜1905年)期に父・庄兵衛が事業に失敗し、経営難へと陥ることになった。加えて、その後日本経済は戦後恐慌に襲われるため、債務整理と同時に事業再建を図るのは非常に困難な時期となっていた。

急速な近代化と西洋文明の受容がおこなわれた当時として、伝統工芸に根差した商売を営む難易度は計り知れない。しかし、それがかえって巴水にとっては思わぬチャンスとなった。このような状態に鑑みて、川瀬家の事業承継計画も変更されたのだ。

川瀬家の家督は巴水の妹・あやと縁組した店員の小田原文三郎が引き継ぐことになった。これは店員として長年勤めたノウハウや商才を見込んでの判断だろう。なお、巴水はしっかりと家業を継ぐことを考え、大倉商業学校(現:東京経済大学)の夜学に通い簿記や英語などを学んだようだが、商才には恵まれていなかったようだ。

こうして巴水は家業の宿命から解放され、自らの望む絵師としての道を歩むことになったのだ。1908年、巴水が25歳になったころだった。

キャリアの障壁から学び得た「情景表現の礎」

川瀬巴水「旅みやげ第二集 『雨の清水寺』」
川瀬巴水「旅みやげ第二集 『雨の清水寺』」(大正10年=1921年)、木版 多色摺、26.9cm x 38.9cm、東京国立博物館蔵 出典:国立博物館所蔵品統合検索システム

「何事にも始めるに遅いことはない」という言葉がある。それは巴水にあてはまるものだが、キャリアを歩み始めた時期に年齢という障壁が立ちはだかった一人でもある。25歳にして本格的に絵師を志した巴水ははじめ、以前から面識があった美人画の巨匠・鏑木清方の門下入りを願い出た。しかし、清方は巴水の25歳という年齢の高さから正式な入門を許さず、代わりに西洋画の習得を勧めた。

ようやく自身の望む道へと歩み始めた巴水にとって、実力以前の問題で拒絶されたのはこたえるものがあっただろう。しかし、巴水はそこで諦めることはせず、清方に紹介された白馬会葵橋洋画研究所に入り岡田三郎助などの洋画家から技法を学びつつ、日本画も書き続けた。そして清方に習作を持ち込み続け、粘り強くアピールし続けたのだ。

西洋画を学び始めてから2年後、粘りのアピールが実り、巴水は27歳にしてようやく清方の門下入りを許されるその後ようやく、清方から自身の画号「巴水」を命名され、絵師としてのキャリアが始まった。

これまで巴水が歩んだキャリアは遠回りを迫られたように見えるが、むしろ西洋画の技法を学んだことが、後年の作品に大きな影響を与えていたのだった。

その一例に、巴水の作品に見られる正確な遠近法と細密描写がある。先日公開の伊藤若冲の記事でも言及したが、日本は幕末まで鎖国政策をとっていながらも、例外的に中国とオランダとは限定的な交易が許可されていた。舶来の絵画や書物から海外の技法を学び、自身の作品に取り入れる絵師も現れていた。たとえば歌川広重(1797〜1858年)もその一人で、連作『東海道五十三次』では、遠近感を用いた巧みな風景表現が見られる。

歌川広重「東海道五拾三次之内・岡崎 矢矧之橋」
歌川広重「東海道五拾三次之内・岡崎 矢矧之橋」(江戸時代=19世紀)、錦絵、22.6×35.1cm、東京国立博物館蔵 出典:国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-7120?locale=ja

広重の作品のように、江戸時代の絵師は限定的な情報から遠近法を学んだため、風景の描写としての遠近感の正確な表現は未発達な部分があった。それでも旧来の画法に西洋風の表現技法を取り入れたことは非常に意欲的で、これまでにない奥行きある風景表現は大衆に大きく支持された。

一方で、明治期にあって絵画技法の体系的を学ぶことのできた巴水の作品は、より正確な遠近法や陰影の表現が見られる。このように、浮世絵という伝統的な版画作品の中に、(当時の日本としては)モダンな技法を取り入れることで、立体的で奥行きのある写実的な描写を実現しつつ叙情豊かな表現をつくり上げた。まさに「新版画」という名にふさわしい、新たな浮世絵表現を確立したのだ。

川瀬巴水「旅みやげ 第二集『小千谷旭橋』」
川瀬巴水「旅みやげ 第二集『小千谷旭橋』」(大正10年=1921年)、木版 多色摺、39.3×26.0cm、東京国立博物館蔵 出典:国立博物館所蔵品統合検索システム

キャリアを歩むにあたって、「自分のやりたいこと」を一直線で進める人物は、それほど多くないのではないだろうか。そこには必ずしも自己に要因があるわけではなく、思わぬ外的な要因が障壁となり、致し方なく遠回りを強いられることも少なくない。

前述の通り、巴水は家業という宿命によって一度は絵画を断念し、そして年齢によって入門を拒まれた。しかし、そこで完全に筆をおくことはせずに絵を学び、描き続けた。いかなる障壁があろうとも自身のやりたいことを探究し続けたことが、後年の版画作品に結実しているともいえる。むしろ、このような障壁が巴水の絵画に対する情熱をかきたてたからこそ、他者からの刺激を柔軟に需要しつつ、自身の表現に取り入れることができたのではないか。

浮世絵をアップデートし、新たな価値を生み出す「新版画」運動への参画

川瀬巴水「東京十二題『木場の夕暮』」
川瀬巴水「東京十二題『木場の夕暮』」(大正9年=1920年)、木版 多色摺、36.3×24.3cm、東京国立博物館蔵  出典:国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-9104?locale=ja

ここまでは川瀬巴水が絵師になるまでのキャリアを紹介した。では、巴水はどのように版画と出会ったのだろうか。実は、版画に出会うまでの巴水はいわば模索期であり、絵師として身を立てるために、また自身のスタイルを確立するためにさまざまな作品を手がけていた。

先述の通り、巴水は27歳にしてようやく鏑木清方の門下となったが、そのころには江戸末期の浮世絵師である歌川国芳や師である清方の下絵を写しながら、日本画の基礎を固めた。並行して清方の門弟と若手日本画家によって結成した巽画会で初めて作品を出品している。

その後、大正2年(1913年)ごろからは着物小物店「銀座白牡丹」で広告や小物の図案を描いたり、出版社等で小説の挿絵を描いたりするなど、デザイナーやイラストレーターのような仕事も手がけている。絵師としてのキャリアを歩み始めた巴水にとって、次のフェーズは「どのような領域で自身の才覚を遺憾なく発揮できるか」であったのだろう。図案や挿絵の制作は版画に出会ってからもしばらく続き、その数は1000図以上となるという。

そのような模索期に出会ったのが、同門である伊東深水の連作版画「近江八景」(大正7年=1918年)と、浮世絵の版元・渡邊庄三郎だ。この渡邊こそが旧来の浮世絵をアップデートし、新たな価値を吹き込んだ「新版画」の仕掛け人であり、巴水を新版画の旗手としてのポジションを確立させた名プロデューサーともいえる。

版画、そして風景画に自らの道を見出した巴水だが、当時の浮世絵は芸術界のメインストリームとはほど遠く、風前の灯とも見えるものだった。江戸期に町人文化の隆盛とともに一時代を築いた浮世絵だが、前述の通り明治期には西洋文化の受容と礼賛により需要が激減している。版画をとっても石版画や銅版画といった新たな技法が導入されただけでなく、写真という新ジャンルも登場していた。

表現手法の多様化やより正確性の高い新技術がもたらされ、浮世絵は衰退の一途をたどっていた。浮世絵は絵師と版元のほかに、木版に図案を彫る彫師や和紙に摺る摺師が連携する、いわば分業体制がとられている。業界全体が衰退しているため、ステークホルダー全体が困窮し、廃業の危機に瀕していた。

一方で、ヨーロッパに目を向けると、日本から輸出された工芸品などとともに浮世絵が出回り、19世紀後半には日本文化にインスパイアされた「ジャポニズム」という一大アート・ムーブメントが起きていた。20世紀になると一定の文化的地位を確立し、線を基調とした表現をとる浮世絵に影響を受けアール・ヌーヴォーが流行。そのスタイルは日本にももたらされ、日本の文化潮流(いわゆる大正ロマン)の一翼を担っている。

そのような中で、浮世絵の復興と新たなマーケット開発に意欲を燃やしていたのが渡邊だった。質屋の小僧に始まり、輸出商や外国人専門の日本美術店などを経て版元となった渡邊は、浮世絵のポテンシャルを強く感じていた。オーストリア人画家のフリッツ・カペラリとのコラボレーションによる西洋画の浮世絵化の試みや、外国人に向けた浮世絵販売などを通して、渡邊は西洋のマーケットに通用する新たな浮世絵の創造に活路を見出したのだ。これがいわゆる「新版画」の始まりであり、巴水も新版画に自身のキャリアの可能性を見出した。

「旅情詩人」と称される所以 体験が描き出す「日本のすがた」

川瀬巴水「東京十二題『春のあたご山』」
川瀬巴水「東京十二題『春のあたご山』」(大正9年=1920年)、木版 多色摺、36.5×24.2cm、東京国立博物館蔵  出典:国立博物館所蔵品統合検索システム(URL 同前)

新版画が従来の浮世絵からアップデートした点は大きく2つ。1つは「海外に通用する芸術性」だ。従来の浮世絵は作品であり、人気絵師がいたこともたしかだが、大衆にとっては世情を伝える情報媒体や娯楽としての側面が強かった。たとえば歌川国貞(三代豊国)が描いた歌川広重の「死絵」(下図)は、歌川広重の逝去を通知し、辞世の句などを伝えるものだ。このような浮世絵のあり方からより芸術性を重視し、構図や技法に西洋絵画の技法などを取り入れることで、外国での評価を狙ったのが新版画の特徴だ。

歌川国貞(三代豊国)「歌川広重 死絵」
歌川国貞(三代豊国)「歌川広重 死絵」(安政5年=1858年)、錦絵、37.3×25.6cm、東京国立博物館蔵  出典:国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-7287?locale=ja

また、新版画が芸術性を高める上で注目すべきは、「摺り」(原画を和紙に印刷する工程)の回数の多さだ。浮世絵はいくつかの版を重ねて印刷をおこなう(順序摺)ため、他の印刷手段と比べても手間のかかる印刷技法だ。巴水の作品集『旅みやげ 第一集』の大正9年(1920年)初秋の工程では、摺りは34回にもなるという(『川瀬巴水作品集』[増補改訂版]より)。通常15〜20回ほどといわれている浮世絵の摺りの回数と比較しても、非常に手の込んだ作品づくりをしていることがわかる。

また、色数も葛飾北斎の「凱風快晴(赤富士)」が7色に対し、巴水の作品の平均色数は30色(同前)。このような工程のこだわりによって、巴水の作品は鮮やかな色彩美を持ちながら、表現上の芸術性を高めることができた。先述の通り、浮世絵および新版画は絵師と版元、彫師、摺師の分業によって成立する。その点でいえば、巴水の芸術性を表現したプロたちの心意気が随所に見られるものともいえる。

2つめは「日本らしさの強調」。既存の浮世絵も日本の人物・風景をテーマにしたものであったが、新版画が狙ったのは日本の姿や叙情を押し出すことにあった。ただ名勝をありのままに描くのではなく、そこにある日本の原風景や、そこから見出される情緒を表現することに主眼を置いたのだ。このような新版画の特徴は、写生と旅を好む川瀬巴水ともマッチしていた。

巴水の新版画デビュー作は栃木県・塩原を題材とした三図(「塩原おかね路」「塩原畑下里」「塩原志保がま」、いずれも大正7年=1918年)だ。これは明治42年(1909年)に4か月間滞在した同地のスケッチから生まれた。この三図は予想以上の好評を博し、以降巴水は新版画に注力していくこととなる。

巴水の作品から滲み出る叙情は、まさに本人がその場で感じ取った感情が込められたものであり、そのような体験なしにはこのような風景表現を実現しえないだろう。風景から見出される懐かしさや切なさ、あるいは心温まる気持ちは、まさに日本の原風景を眺めた際に見出されるものであり、それを1つの画面上に巧みに込めた巴水はまさに「旅情詩人」と謳われるにふさわしい絵師だ。

巴水は自身の作品のテーマを旅に求め、体験第一主義ともいえる綿密なスケッチから作品を生み出したが、その実スランプにも悩まされた。作風に変化が訪れたのは大正12年(1923年)の関東大震災に罹災したことに始まる。未曾有の震災によりこれまでスケッチ帳や仕事道具は焼失した。しかし、巴水は失意の中にありながらも制作を続け、同年には関西への長期旅行をおこない、作品を出し続けた。震災以後の巴水の作品はダイナミックさが抑えられる一方で、より情緒が深い傾向にある。

川瀬巴水「浜町河岸」
川瀬巴水「浜町河岸」(大正14年=1925年)木版 多色摺、22.5×33.3cm、東京富士美術館蔵  出典=東京富士美術館(https://www.fujibi.or.jp/collection/artwork/06835/

本格的にスランプに陥ったのは昭和11年から14年(1936〜1939年)にかけて、日本が戦禍へと足を踏み入れたころだった。当時の巴水を悩ませていたのは作品のマンネリ化であり、日本を覆う戦時の空気を気に病み、スケッチも思うようにいかなかったという。

川瀬巴水「朝鮮八景『水原華紅門』」
川瀬巴水「朝鮮八景『水原華紅門』」(昭和14年=1939年)、木版 多色摺、39.2×27.0cm、東京富士美術館蔵  出典:東京富士美術館(https://www.fujibi.or.jp/collection/artwork/04005/

そんな折、巴水に変化をもたらしたのも、やはり旅であった。巴水は昭和14年に約1か月、当時日本に併合されていた朝鮮半島へと写生旅行に出かける。そこで見た広大な自然や人々の風俗は、巴水に大いにインスピレーションを与えた。以降巴水の作風は鮮やかさが戻り、円熟期に入っていく。

自ら歩き訪ねることで道を切り拓く。川瀬巴水という絵師のキャリアをみると、まさにこのような言葉が浮かぶ。ある意味貪欲なインプットと絶え間ないアウトプットがあってこそ、巴水は世界的に評価される絵師になり得たといえるだろう。

自身が経験したからこそ知り得る知見や見える景色がある

川瀬巴水「『川瀬巴水版画集』 山中湖の暁」
川瀬巴水「『川瀬巴水版画集』 山中湖の暁」(昭和10年=1935年)、木版・多色摺、36.5×23.8cm、国立国会図書館蔵  出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/2586549/1/42/

日本の幕末から明治・大正期、そして昭和にかけての変遷は非常にドラスティックであり、急進的であった。一方で、その中から取りこぼされつつある価値もあり、それを懸命に維持あるいは現代へと昇華させる動きがあったからこそ、日本の文化的基盤は今なお高い国際競争力を持っているともいえる。

川瀬巴水が歩んだキャリアは、当初から自らの望む通りに歩むことは叶わなかった。しかし、見方を変えればその分西洋の絵画技法や思想をインプットし、自身の版画作品に取り入れたことで唯一無二の表現を確立できたともいえる。そして、その美的感覚はテック業界の巨匠にすら影響を与えている。スティーブ・ジョブスだ。

ジョブスは日本文化や禅の思想に傾倒していたことは広く知られているが、彼と巴水の出会いは10代のころ。親友であり、後にAppleで働くビル・フェルナンデスの実家に飾られていたのが、巴水の版画だった。その美に魅せられたジョブスは、後年日本で巴水の作品を買い求め、確認できるだけで二十数点の作品をコレクションしていたという。上図「山中湖の暁」もジョブスのコレクションにラインナップされている一点だ。

Appleのプロダクトの多くがシンプルでありながら高いデザイン性を持つが、これにはジョブスの美的価値観が強く表れているという。彼の世界観が日本のみで形成されたとはいえないが、ブランドとしての思想を持ち、こだわりをもってプロダクトデザインを追及する。このようなプロダクト開発のあり方をテック業界に持ち込んだのは、紛れもなく彼の美的素養があってのことだろう。

現代はいわば、かつての明治期と同様に変革の時代を迎えているのかもしれない。世界情勢としても不安定であり、テクノロジーを見てもAIの台頭はIT業界のみならず、クリエイティブ業界にも影響を与え始めている。これまでマンパワーに頼っていた物事が自動化・高速化を実現するとともに、それらを担う人間の淘汰が生まれるという不安も持つ人も現れている状況だ。

実際、AIは今後多くの業界業種に影響を及ぼし、人間の雇用のあり方も変えていくだろう。ある意味で、現代は新陳代謝が活発な時代を迎えている。しかし、旧来の物事が必ずしも価値を失うわけではない。むしろ、衰退しかけたものが新たな価値観やテクノロジーと融合することによって、イノベーションを生む可能性も持っている。さながら新版画のように、見過ごされてきた価値の中にこそ、競合優位性の源泉があるのかもしれない。

個人に目を向けてもそれは同様のことがいえるだろう。自身のキャリアの中で目指したい物事がある中でも、現在それが叶わない場合もある。しかし、現在やこれまでの自身を振り返ると、自身が経験したからこそ知り得る知見や見える景色があるはずだ。それが目指すべき場所に行った時に、大きなアドバンテージとなることもある。

なお、巴水はスランプ期にかなり心が腐っていたという証言もあるが、それでも旅をして絵を描くことは止めなかった。キャリアを歩む中で、順風満帆なときはそれほど多くないのが世の常だ。遠回りをしても、あるいは目指すべき場所が遠くても、やり続けることが一番の才能になるのだろう。

(文:川島大雅

― presented by paiza

【参考サイト・資料】

大田区ホームページ「川瀬巴水 学芸員コラム」

NHK ウェブ特集 スティーブ・ジョブス「美」の原点

NHK ウェブ特集 スティーブ・ジョブズ マックを生んだ日本の版画との出会い

財務省総合政策研究所「大蔵省史 第3期 経済の発展と大蔵省(明治28年~大正3年)第3章 戦後不況と財政整理」

台東区の伝統工芸品「東京くみひも」

浮世絵木版画彫摺技術保存協会「摺り師の技術」

『川瀬巴水作品集』[増補改訂版]清水久男(2021年)東京美術

『日本美術の歴史』辻惟雄(2005年)東京大学出版会 

 

【画像引用元】

国立博物館所蔵品統合検索システム

東京富士美術館

国立国会図書館デジタルコレクション

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