「異才」と称される人たちは、各時代に必ず存在する。時代を切り拓くような卓越した技法、常識にとらわれない独自の世界観で人々を魅了する圧倒的な才覚を持つ人々だ。しかし、そのような人々の人物像に迫ると、思いもよらぬ人間臭さが感じられる場合もある。
江戸時代に京都で活躍した画家・伊藤若冲(1716〜1800年)もその一人だ。精緻でありながら幻想的な描写、自由かつダイナミックな構図は、現代に至ってもなお新しく感じさせる。そのあまりにも独創的なその画風は、明治以降の美術史界で異端視されるほどだったが、若冲が絵に専念するようになったのは40歳のこと。それまでは青物問屋の4代目として家業を切り盛りしていた。
現代風に言えば「ミドルからのキャリアチェンジ」を果たした若冲。彼のキャリアからは、現代のビジネスパーソンにも通ずるものがあるのではないか。同時代の美術や若冲の画風について踏まえながら、そのキャリアに迫りたい。
目次
大衆が育み、花開いた「江戸後期のルネサンス」

伊藤若冲「葡萄双鶏図」(寛政4年=1792年)、絹本着色・軸装、101.9 x 41.3 cm、メトロポリタン美術館蔵
伊藤若冲の活躍した時代の京都の美術シーンは、画家だけでなく画風も多様性に富んだものだった。その背景には、長きにわたり徳川政権による安定した政治体制で、大きな戦乱がない比較的平和な社会が続いたことにある。
平和は都市の発展を生み、経済成長を促した。その結果、都市部に住む町民の文化レベルは底上げされ、文化の担い手も徐々に支配層から町民へと移行していった。それに加えて、鎖国による輸入物の規制緩和も当時の文化に刺激を与えた。江戸初期のキリシタン弾圧以降、西洋諸国との貿易は厳しく制限されていたが、この頃には実用性が認められるものに限り輸入が許可されるようになっていた。
従来より比較的寛容であった中国の文物に加え、西洋の絵画技法も流通するようになったことが、多様性の広がりを一層後押ししたと言える。例えば円山応挙(1733〜1795年)は西洋画にある立体的な描画法や中国画の写実的な表現を日本画に取り入れている(下図参照)。

円山応挙「海棠金鶏図」(安永4年=1775年頃)、絹本着色・軸装、70.0×30.0cm、東京富士美術館蔵
一方で、鎖国という規制下にあり、断片的にもたらされた中国画を独自に解釈し、新たな価値を付与する傾向もあった。それが当時の「文人画」であり、これらは遥か遠くの中国の理想郷に住まう文人(知識階級)の生活を夢見て描かれたものだった。
当時の中国(明清時代)での文人とはつまり支配階級を前提としていたのだが、日本では階級を超えたより自由な世界観と解釈されていた。例えば池大雅(1723〜1776年)は自ら各地を旅し山水に身を置き、文人としてのライフスタイルを実践しながら絵に没頭した(下図参照)。

美術史学者の辻惟雄氏が「京画壇はルネッサンスさながらの活況を示した」(※)と話したように、京都の美術シーンは町民によって花開きながら、既存の絵画技法が中国・西洋の新しい風に刺激を受け成熟していった。その中でも特に斬新かつ独自性の高い画風を確立していたのが、現在では「京都奇想派」と呼ばれる異色の画家たちであり、伊藤若冲もこれに分類されている。
※辻惟雄「日本美術の歴史」(東京大学出版会、2005年) p.310より引用
冒頭の作品「葡萄双鶏図」のように、若冲の作品は動植物などの描写は非常に細密である一方で、円山応挙にあるような客観的な写実性ではなく、重力から解放されたような幻想的な世界観を表現している点に特徴がある。本作の雄鶏の尾羽に見られるような特徴的な曲線は、現代でいうところのイラストレーション風であり、シンプルで余白の多い構図でありながら、絵全体にリッチな印象を与えている。版画を見るとその曲線の魅力はより強く引き出されており、後世のアール・ヌーヴォーのような優美さをたたえている(下図参照)。

伊藤若冲「玄圃瑤華のうち水葵・糸瓜」(明和5年=1768年)、28.2 × 17.8cm、東京国立博物館蔵、出典:国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-12445-5?locale=ja)
一方で、「鳥獣花木図屏風」(18世紀、出光美術館蔵)では画面上にマス目状の線を引き、モザイク絵のような作品をつくり上げてもいるのだ。技法の自由たるやまさに奇想天外であり、江戸時代の日本にしてアヴァンギャルド過ぎる作品を数多く残している。
では、そのような異才はいかにしてキャリアを歩んだのだろうか。前置きが長くなったが、ここからは若冲のキャリアを紹介していきたい。
青物問屋4代目から画業へ 40歳からのキャリアチェンジ

伊藤若冲「動植綵絵『菊花流水図』」(明和3年=1766年頃)、 絹本着色、142.7×79.1cm、皇居三の丸尚蔵館蔵、出典:国立博物館所蔵品統合検索シス(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/shozokan/SZK002949?locale=ja)
伊藤若冲は京都・錦小路の青物問屋「桝屋」の長男として生を受けた。桝屋は市場を取り仕切り、生産者や仲買人などに農作物の売場を提供し場所代を徴収する、現代の流通とテナント貸しを兼ねたビジネスモデルをしていた。当然ながら相当な富裕であり、若冲はいわば御曹司であった。
御曹司であり、独創性溢れる作品を残し、後世の美術史学者をして奇想派といわしめた人物である。さぞ豪放磊落な人物像かと想像するだろうが、伝わるところの若冲はその逆で、今風に言えば「陰キャ」であったという。
商売にはあまり興味がないばかりか、芸事や飲酒も好まない。色欲に溺れることもなかったが、その代わりに生涯伴侶を持つこともなかった。そんな若冲であるが、23歳の時に父親が他界し、4代目当主として事業を担うことなった。一族経営の企業の御曹司が事業についてまったく関心がなく、少なからず浮世離れしているのだから、家族はもちろん、従業員もさぞ冷や冷やしたことだろう。とはいえ、若冲は事業運営をこなしていたようで、後述する放蕩逸話が残るものの、ある程度は責務を全うしていたようだ。
しかし、家業を継いでから17年後、ちょうど40歳となるタイミングで、若冲はあっさりと隠居。家督を弟に譲り画業に専念することを決めた。一般的な隠居とは高齢者を想像するかもしれないが、当時の世相を考慮しても40歳は決して高齢者というわけではない。
京都の廃寺跡から発掘された人骨の調査報告書(末尾参考資料を参照)によれば、江戸時代の京都町民の出生児平均余命(平均寿命)は男性で40歳弱、女性で30歳弱であった。しかし、同調査報告でも言及されている通り、前近代では乳幼児の死亡率が高く出産時の女性死亡率も高い。そのため自ずと平均値は低くなっているが、80歳以上まで生きた人々も全体の3%程度はいるという。実際若冲も84歳まで生きていたため、かなりご長寿だった。
ただし、医療技術が確立されていなかった当時の死は現代よりも身近だ。40歳という年齢は人生でなにかをやり遂げようと思うには、その残り時間は決して長い時間ではなかったのかもしれない。むしろ若冲は、この年齢をあらかじめ新たな人生へのスタートラインと定めていたのではないだろうか。
私たちが転職や起業を決意するように、若冲は自身がコミットしたいこと、チャレンジしたいことに舵を切る。若冲の場合、それは唯一自身が熱中できる、絵を描くことだった。家業のかたわらで日本画派の名門・狩野派に学び、それに飽き足らず中国の花鳥画を模写し、動植物をつぶさに観察し続けていた。その蓄積が、40歳以降の若冲に天賦の才覚を発揮させた。
近年明らかになった「町のヒーロー」としての若冲像

伊藤若冲「動植綵絵『群鶏図』」(明和2年=1765年以前)、絹本着色、142.6×79.7cm、皇居三の丸尚蔵館蔵、出典:国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/shozokan/SZK002949?locale=ja )
巷でよく「チャレンジするのに遅すぎるということはない」という言葉を見かける。キャリアに目を向ければ、現代では転職や起業という選択肢は珍しいものではなくなっている。さらには副業や複業によって、2つ以上の軸からキャリア形成を行うビジネスパーソンも増えてきているという。
前述で、若冲は絵画に専念するために隠居したと記載したが、実は若冲も決して完全に世間から姿を消したわけではなく、ゆるやかな両軸を形成していたことがわかっている。「京都錦小路青物市場記録」という当時の錦小路について記録した資料によると、若冲は明和8年(1771年)頃には、錦市場を構成する一地域の町年寄(地域の行政を司る役職)を務めていた。
先述の通り、若冲はあっさりと隠居をしたものの、その準備は綿密に行なっていたらしく、家業の引き継ぎもさることながら、自身の墓も生前に購入していたことがわかっている。終活まで済ませて隠居生活を送る、その潔い身の振り方があったからこそ、地域の人から慕われていたのかもしれない。
実は、若冲の地域の顔役という側面が、美術史とリンクしたのは比較的最近であり、しばらくの間は「画業三昧のボンクラ息子」というイメージが定着していた。そのため、若冲は隠居前に2年間ほど仕事を放棄して放蕩生活を送り、その間に桝屋が詐欺被害にあい市場全体が混乱したという逸話が残っているほどだ。
しかし、前述の資料が論文化され、町人としての若冲の活動が明らかになるにつれ、画業だけでなく、錦市場を守るために奔走していた事実が明らかになった。
若冲が町年寄を務めていた頃、商売敵の策略により錦市場が奉行所から営業停止の憂き目にあう事態が起きた。つまりは近隣の市場間での利権争いであり、商売敵は錦市場の閉鎖を狙っていたという。
その際に営業存続のために奔走したのが、なにを隠そう伊藤若冲だ。隠居前の商売で培ったコネクションをフルに活用し、錦市場の関係者、周辺農家などを巻き込み市場存続の嘆願運動を展開した。運動に参加した者の中には幕府領に住む農家も含まれ、奉行所も無視できない状態となり、結果的に上納金を納めることで営業を存続させることに成功した。若冲はいわば、錦市場の救世主なのだ。
若冲はただ名誉職として町年寄りをしていただけでなく、危機に際しては自らの身を挺して権力と謀略に立ち向かい、市場を救ってみせた。この紛争が解決するまでの期間は、ちょうど若冲の作品がほとんど見られない空白期間と合致している。
このような事実を踏まえ、前述の逸話は後世で作り変えられたものと推測できる。隠居前に家業を放り出した人間に地域が町年寄という役職を与えるとは考えられない。また、そのような人物が市場の危機に際して、率先して解決に乗り出すこともなければ、筆を置くこともなかっただろう。
画家・町民の「パラレルキャリア」が若冲に与えた好影響

伊藤若冲「果蔬涅槃図」(江戸時代)、紙本水墨、182.4×96.3cm、京都国立博物館蔵、出典:国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/A%E7%94%B283?locale=ja)
若冲は40歳から画家に専念することを決めたものの、決して世間から断絶していたわけではなく、町年寄という役割を持っていた。しかし、このような2つの側面を持っていたことは、若冲にとってもプラスに働いたのではないか。
キャリアにおいて、新しいことを始めたばかりの時期は孤独になりやすい。それは決して独立・起業した人だけに限った話ではなく、新しい環境やコミュニティに馴染むまでの間は、心理的安全性の保持が難しいためだ。
その点で言えば、若冲は隠居し画業に励む身であったものの、既存のコミュニティに属することもでき、役割も与えられていた。そのような地域や家業とのつながりを維持することで、視野狭窄におちいることもなく、より自由な発想で絵を描くことができたとも受け取れる。
冒頭の通り、当時の京都は町人が文化の担い手であったため、周囲としても若冲の選択に寛容であったのだろう。実際、若冲から家業を引き継いだ弟の白歳は若冲から絵の手ほどきを受けていたと言われ、その作品も現存している。そのような交流を通して、若冲は世情とのつながりを維持しながら、自身の作品へのインスパイアも受けていた可能性もある。
このように、若冲には「自身が専念したいこと」と「既存のコミュニティでの役割」の両軸があり、相互が影響しあいながらキャリアを形成していた。現代のキャリア形成は決して一本道ではなくなり、複数の軸から進むことができる。こうした見方をすれば、若冲は作品だけでなく、キャリアのあり方も先取りしていたとも言えるし、ある意味で江戸時代からパラレルキャリアを実践していた人物と受け取っても差し支えない。
(文:川島大雅)
【参考文献・資料】
辻惟雄「日本美術の歴史」(東京大学出版会、2005年)
赤瀬川原平・山下裕二「日本美術応援団」(筑摩書房、2004年)
「サライ」2011年7月号・大特集『大特集:これから美術の話をしようー全62作品で知る美術の「深さ」と「愉しさ」』(小学館)
科学研究費補助金研究成果報告書「江戸時代京都町民の人物像、生命表、病歴などを探る骨考古学的研究」京都大学 理学研究科 名誉教授 片山一道(研究期間:2008〜2010年)
アート情報総合サイト「京都で遊ぼうART by 京都文化推進委員会」京都ゆかりの作家 伊藤若冲
【画像引用元】
メトロポリタン美術館
国立博物館所蔵品統合検索システム
