アパレル市場は大きな課題を抱えている。バブル期に約15兆円だった市場は、現在では約10兆円と2/3へ縮小。一方で、ファストファッションの流行や趣向の多様化により、服の年間あたりの流通量は、約20億点から約40億点と2倍も増えている。いわゆる供給過剰の状態だ。つくられる服の量は多いものの、売れにくく、値崩れが起こりやすい市場になっている。

また、国内の服の生産量は、2022年で1.5%。服をつくる工場自体が少なく、小規模な工場が多いことから、営業や生産管理に手が回らず、売上と利益を上げにくい状況が続く。

このようなアパレル業界で、ITの活用によって、つくり手・販売者・購入者にとってサスティナブルな仕組みをつくろうと奮闘しているのが、株式会社フクル(以下、フクル)を経営する木島 広さんだ。

提供:フクル

その方法は、少ロット多品種生産に対応するプラットフォーム事業を営み、売り手とつくり手を繋げるというもの。売り手としては、工場に対しての生産管理の工数が減り、作り手としては、売り手へ営業する工数が減り、買い手としては必要な服を必要なだけ購入できる。

どのような過程を経て、木島さんはこの事業に挑戦しようと思ったのだろうか。その背景には、幼少期から一貫して服づくりに携わってきた経験があった。

木島 広(きじま ひろし)氏
株式会社フクル代表取締役。群馬県桐生市の縫製工場に生まれる。 文化服装学院アパレルマーチャンダイジング科卒業後、縫製サンプルの事業を手がける株式会社レオパールで営業を担当。 その後、株式会社コムデギャルソンにてパタンナーの仕事を手がけ、イオントップバリュ株式会社で衣料商品企画開発部チーフクリエイティブデザイナーを担う。 2011年に個人事業主として起業し、 2014年に株式会社Huggyhuggy(ハギーハギー)、2015年に株式会社フクルを設立。

幼少期から縫製に親しむ

木島さんは、織物産業が盛んな群馬県の桐生市で生まれた。実家は縫製工場。3階てのビルの1階と3階が工場、2階が住居という職住一体の環境で育った。

服づくりは日常そのものだったため、特別な憧れは持っていなかった。小学2年生になると学校に持っていく雑巾を縫うようになり、高学年になるとお小遣いをもらうために工場の芯貼り機の前に立つようになった。

当時は、バブル全盛期。ファッション市場は現代の1.5倍も大きく、景気のいい時代だった。ビジネスで手腕を発揮し、充実した生活を送る父親の姿は幼心に輝いて見えた。

「父はエネルギーがあって、いつもお付き合いでおいしい料理やお酒を飲み食いしていました。『なんかいいな』と思ったんです。それで、『楽しそうだから社長になりたい』と夢を持ちました。単純ですよね」

幼少期に抱いた「社長になりたい」という思いは、木島さんの心に残り続ける。高校1年生になると、大学の附属校に通っていたが、自身のやりたいことを考え、大学にそのまま進学するのではなく、経営者になるための進路を探した。

「両親、兄、姉もアパレル関係の仕事をしていたので、その景気について聞いたんですよね。アパレル会社は初期投資が少なくて、参入障壁も低いとわかったので、将来はアパレル会社を立ち上げようと思いました」

進路について、地元のファッションの専門学校を卒業し、アパレル業界で働いていた姉に相談するとアドバイスが返ってきた。

「ぜひ東京に行きなさい」と。

名門校での学生生活

高校を卒業した木島さんは、コシノジュンコなどの一流ファッションデザイナーを輩出している名門校、文化服装学院に進学した。

文化服装学院では、2年次から4つある専門コースのいずれかを選択し、学ぶことになる。木島さんが選んだコースは、アパレルMD(マーチャンダイジング)。事業を起こすための勉強をするコースだ。

木島さんの道のりを見ると、起業するために強い熱量を持って学業に取り組んでいたかのように思えるが、「将来を見据えて勉強に打ち込んでいたんですか」と質問すると、意外な答えが返ってきた。

「授業の成績はよかったんですが、あまり熱心ではありませんでした。学園祭にも出ませんでした。学校もほとんど直行直帰でしたね(笑)」

専門学校を卒業した後の就職先は、コースの責任者を務める先生に紹介してもらった縫製のサンプルメーカーへ決めた。その理由は、会社の社長と面談したときのフィーリングがよかったから。「基本的には直感で動くタイプなんです」と静かに微笑みながら教えてくれた。

苦手な新規開拓営業で売上を2倍に

木島さんの社会人生活は、新規開拓の営業からスタートする。個別にアポイントを取る必要があるが、需要があるかわからない状態で見知らぬ人にコンタクトを取ることに気が進まない。電話帳を広げながら、打開策を考える中で「効率的に営業を進める方法はないか」と専門学校で学んだデザインやフォトショップやイラストレーターなどのスキルを振り返っている内に、ひとつの打開策を思いついた。

「カタログをつくって、DMを送ろう」

当時は、1998年。パソコンも一般家庭に普及しておらず、インターネットも馴染みが薄い時代だ。メールによるカタログ営業は一般的ではなく、かなり先駆的な取り組みといえた。

木島さんの作戦は予想よりも大きな成功を収める。新しい会社との取引が4〜5件始まり、3か月で会社全体の売上が2倍になったのだ。

工場のキャパシティはパンパンになり、入社9か月目のころには、社長からは「これ以上、新規開拓しないでくれ」とお願いされるようになった。困った木島さんは、「次にどんな仕事に取り組んだらいいですか?」と社長に相談。すると、意外な答えが返ってきた

「もう営業のスキルは身につけたんじゃないか。起業を目指すなら、次のステップに進んで新しいスキルと職歴を身につけるといいよ」

コム・デ・ギャルソンで積んだパタンナーとしての修行

木島さんが、次に選んだ職場は、モード系のファッションで世界トップのアパレルブランドのコム・デ・ギャルソン。

パタンナー(デザイナーが描いたデザインを型紙に落とし込む職人)のアシスタントとして、アルバイトで入社した。業界新聞を眺めていたら、たまたまアルバイトの募集をしていて、直感的にピンと来たのがその理由だ。

アルバイトの業務内容は、パタンナーのつくったパターンを元に、仮縫いでサンプルをつくるというもの。小さいころからミシンを扱っていた木島さんは、難なく業務をこなしていき、すぐに社員からの信用を獲得。コム・デ・ギャルソンの世界的なブランドのひとつ、「JUNYA WATANABE」のチームでクリエイティブな服づくりに携わるようになり、2年経ったころには、上司からの推薦で正社員試験を受けるようになった。

しかし、肝心の試験の結果は、課題に対して会社のアイデンティティに沿った回答を出せず、不採用。アルバイトを続けることになった。

「『せっかく受けさせてあげたのに、なにをやっているんだ!』と上司にひどく怒られました」と苦笑いしながら振り返る。

見えたクリエイティブの限界

不採用から半年後。

木島さんはアルバイトの立場のまま新ブランドの立ち上げやコレクションラインに関わり、チームの中核メンバーになっていた。

このころ、「さすがに正社員にしないとマズい」と会社が考えたのか、「明日から正社員ね」と声がかかり、試験なしの特例で正社員に採用された。

正社員になった木島さんは、着実にスキルを磨いていく。2年ほどすると実力が認められ、パリコレクションにパタンナーとして参加できるようになった。

「最初のパリコレクションは記憶に残っています。当日は舞台の袖で仕事をしているので、ランウェイを見ることはできません。ただ、パリコレが終わった夜にパリのオフィスで上映会をやるんですよね。最初にその映像を見たときは達成感を強く感じました」

木島さんが携わった作品は、パリコレクションで、数百着売れることもあった。1着の価格が数万円のため、少なくても一人で数千万の売上になる。「すごい売上ですね」と伝えると、木島さんは首を横に振った。

「一般論のようによく売れる人ほどいい結果、というわけではないんですよ。クリエイティブな服ほクど一般ウケしにくくなって、販売数量が落ちるからですね。ただ、私はクリエイティブの面でもトップレベルではありませんでした。私が携わっていた作品は、多くの人に支持されるベーシックとクリエイティブなファッションの中間くらいの売上でしたね」

また、本人は「クリエイティブの面では、思い通りの結果を出せなかった」とも考えている。

「コム・デ・ギャルソンにはクリエイティブのスターたちがいます。最初は、一緒に仕事をしながら、『どうやったら追いつけるかな』と考えていました。ただ、どうしても才能の差があるんですよね。物事を深く考えて、アイデアを表現する力では敵いません。『どうやっても差を埋められないな』と痛感しました」

クリエイティブの天才たちと同じように、夜中の3時まで働き、その背中を追い続けていたが、その差は縮まらなかった。

このとき、支えになったのがビジネスや化学の雑誌だ。東洋経済・Newton・Newsweekなどを愛読し、新しい技術が世界を変えていく取り組みを知ることで胸がたかなった。

自身のクリエイティブに限界を感じていた木島さんは、ビジネス雑誌を読んでいるうちに心に抱いていた想いを思い出す。

「そうだ社長になりたいんだった」

コム・デ・ギャルソンでの最後の学び

次のステージへ進もうと考えた木島さんは、マネジメントスキルを獲得するために、会社を辞めようと考えた。そのことを上司に相談すると、思いもよらない回答が返ってきた。

「ここでマネジメントをすればいいよ」

上司はチーフに抜擢してくれた。このときにかけられた言葉は今もよく覚えているという。

「あなたはスターたちのようなクリエイティブはできない。でも、スターたちはチームをリードしていくことは苦手だ。クリエイティブを理解できるあなただからこそ、クリエイターの人たちが仕事をしやすい環境をつくれるんじゃないか」

木島さんは、自身の置かれた環境で課題を見つけ、テクノロジーや仕組みで解決することが得意だ。直感で課題のポイントを感じとり、言語に落とし込み、論理的に解決策を探っていく。上司もそのポテンシャルに気づいていたのだろう。

こうして木島さんは、20名のマネジメントをする立場になった。ただ、そこからは地獄の日々だったという。

「仕事が終わるのは大抵午前2〜3時です。これまでは帰りのタクシーが家に着くまでの15分ほどを仮眠に当てていましたが、それすらできなくなりました。家に帰ってからも次の日の仕事の段取りを考えます。きつい期間でした」

厳しい日々は、2年で終わりを告げる。マネジメントのコツを掴んだ木島さんは会社を去ることを決断。自身のノウハウを書類に落とし込み、1年かけて引継をした後、次の舞台へ飛び立った。

イオンリテールで大規模な事業開発を担う

2008年。木島さんが、起業前に選んだ最後の会社はイオントップバリュ。当時のイオンは衣料品で国内トップのシェアを誇っていたが、ユニクロを率いるファーストリテイリングがその背中を猛追。市場競争は白熱していた。

「コム・デ・ギャルソンで働いてみて、エッジの効いたファッションブランドはつくれないと悟りました。だったら、その逆のビジネス、つまりマス向けのビジネス経験を積めば、自分らしい会社をつくるヒントが得られそうと考えたんですね」

コム・デ・ギャルソンでは、革新的なファッションを追い続けていたが、イオンでは人々のニーズに合わせた商品を開発していく。

「マーケティングからお客様のほしい商品を把握し、最終的な製品を開発していました。ロジカルに物事を考えて、アウトプットに繋げていましたね」

また、ゼロからの事業開発も手がけた。イオンと三菱商事が手を組んだ国内最大手の国内合弁会社に創設時期から関わり、トップバリュコレクションの立ち上げに貢献した。「これでやり残したことはない」と考えた木島さんは、会社員としての生活に区切りをつける。

「スマートフォンが普及してきた。これからはインターネットでの商品の売り買いが加速する時代になる」

2011年、胸に想いを秘めながら地元の桐生に戻った。

個人事業主として挑戦した3つの事業

木島さんが手がけた抱っこ紐

地元に戻った木島さんは、個人事業主として3つの事業に取り組んだ。

一つ目が、フリーランスのパタンナー。コム・デ・ギャルソンで培ったスキルで、請負の仕事をこなそうとした。しかし、この仕事の年間売上は約50万円。ほとんどビジネスに繋がらなかった。

二つ目がパターンのダウンロードサイトの運営だ。パタンナーにとって、使い終えたパターンが価値をもつものだと思われていなかった。

Googleのフリーミアムのビジネスが流行っていたこともあり、木島さんは「多くのパターン」を集めれば需要があるのではないかと考えていた。

実際に、その考えは正しく、会員数は順調に増え、4500人ほどのメンバー数となった。ただ、最終的にはマネタイズがうまくいかず、事業にはならなかった。

最後の三つ目の事業が、抱っこ紐の事業だ。群馬大学と共同開発して、生後4か月か36か月まで使える全年齢に対応する商品を開発した。自社サイトでレンタルし、気に入ったら購入してもらうというサブスクなどと同じビジネスモデルを採用した。

抱っこ紐の事業はヒットした。

初年度の売上は100万円だったが、2年目には500万円を超え、3年目には1200万円にまで成長し、最終的に株式会社Huggyhuggy(ハギーハギー)という会社を創った。

しかし、2023年現在、木島さんが手がける事業の中では、ほぼ抱っこ紐を見かけない。それは、なぜだろうか。

「抱っこ紐は赤ちゃんの命に関わる商品です。性能評価をしっかりしたとしても、お客様の使い方によっては事故が起こる可能性がある。抱っこ紐の事故のニュースを見て、『自分たちのブランドで起きたら怖いな』と思ったんですよ。自分にも子どもがいるので、もしも事故が起こったら……」

成長軌道に乗っている事業を諦めるには勇気がいる。木島さんは抱っこ紐の事業の宣伝をしないことで、消極的に売り上げを縮小させていく道を選んだ。

マスカスタマイゼーション事業の始まり

抱っこ紐に代わる事業を考えたときに、まず思いついたのが、パターンのダウンロードサービスの活用だった。手芸の設計図として活用できるようにパターンのダウンロードサービスを改良し、手芸用の生地を販売しようとしたのだった。

そして、木島さんに転機が訪れる。

手芸用レシピのアイデアで、毎年群馬で開催されているピッチコンテストの「群馬イノベーションアワード」に出場すると、交流した投資家からアイディアの種となるひと言をもらったのだ。

「今って21世紀なのに、ドラえもんのような世界になっていないよね。服くらい、電子レンジみたいな箱に材料入れて、チンってなったら出来上がればいいのに……」

その言葉に木島さんはハッとさせられた。

「『これ、できる』と思ったんです。Webサイトにデータを入力すると理想の服が出来上がる。服づくりの上流から下流まで関わった自分ならその仕組みをつくることができると思いました」

実家の工場での縫製、コム・デ・ギャルソンで経験したクリエイティブ、イオンでの大きな事業開発の経験がひとつの線になった瞬間だった。

「鳥肌が立ちましたね」と木島さん自身も振り返る。

提供:フクル

投資家のアドバイスを元に、「マス・カスタマイゼーション」と呼ばれる、1着ずつ服をつくっていくオーダーメイドの事業を木島さんは考えついた。その経緯について尋ねると、じっと目を見ながら答えてくれた。

「国内の服づくりって、消化率100%じゃないので生産性が悪いんですよね。現に私は幼少期から両親のつくった服の多くが焼却処分されていくのを見てきました。ここを是正しないと日本の服づくりを強くすることができないと思いました。それなら、『1着ずつつくればいいじゃん』と思ったのが出発点です」

アパレルメーカーからのオーダーをフクルが受け、次に生地・デザイン・ボタン・ファスナーなどの設計条件をもとに、製造工場を決定。その後、つくり手と協業しながら服をつくっていく。

これはトヨタなどの製造業で行われている生産方式と同じだ。つくる側も販売する側にとっては、廃棄が発生しにくく、ムダが少ない。ファッションという観点で見ると、サスティナブルな生産方法を提供するサービスと言える。

木島さんは、AIやIoTを使った需要予測を行うためのシステムと顧客のサンプルをつくるための工程を、兄が継いだ工場の一角を借りて構築。そのアピールをするために、ワンピースとスーツのオーダーメイドの事業も始めた。

木島さんの胸には熱い想いがほとばしっていた。

破産間際の逆転

起業して2年。「縫製以外の工程を自動化する」ために導入した自動裁断機やシステムの償却費用が大きく肩にのしかかり、木島さんはピンチの状況に陥っていた。請負の仕事はほとんどなく、営業をかけてもなかなか売上を獲得できない。このままだと事業が立ち行かなくなる、いわば崖っぷちの状況だった。

「来月に資金がショートする」

アイデアは正しいはずなのに、どうもうまくいかない。2020年代の現代でこそ、服の廃棄量が多いことは社会課題として広く認識されているが、2017年当時はまだそうではなかった。心は黒い雲で覆われ、焦りが全身を駆け巡る日々を過ごした。

あと1歩で倒産と追い詰められた木島さんだったが、土壇場のタイミングでピッチコンテストに救われた。応募したコンテストで準優勝し、100万円の賞金を獲得できたのだ。

ピンチの後にはチャンスが訪れる。ビジネスを軌道に載せるための転機が知人との交流により生まれた。

「マス・カスタマイゼーションの事業を文化服装学院の知り合いに相談したら、デザイナーやクリエイターの登竜門的なコンテストを主催してると教えてもらいました。そこで協賛させてもらって、コンテストで1位を取った人はフクルで生産できるということをしたんです」

ここで知名度を獲得すると、コンテストに参加した会社10社から相談を受けた。そのうちの3社は、フクルの服づくりに満足し、継続的な取引に繋がった。

「服づくりで困っている人は多くいる。方向性は間違っていないんだなと感じました」

服づくりがサスティナブルな未来になるように


フクルが事業を始めて、6年。マス・カスタマイゼーションは、一品一様の生産から範囲を広げ、少ロット多品種の製品を製造する事業へ成長した。現在では、提携している工場は、関東を中心に約60件、取引先はアパレルメーカーを中心に約15件。つくり手と買い手を繋げる事業は、代表の木島さんとパート2名の合計3名で約5,000万円ほどの売上を上げるようになった。

また、2022年には、「FiTO(フィト)」という新しいサービスもリリースした。FiTOは、無料で服づくりの見積もりができ、その発注まで行えるサービスだ。このFiTOをつくったのは、縫製業界への想いがある。

「縫製工場が継続的に続けていくためには、適正価格を定める必要があると思ったんです。赤字の縫製工場は全国にたくさんあります。給与水準も低いので、このままだと衰退ではなく消滅してしまいます。縫製工場の多くは、どんぶり勘定で価格を決めています。経営者の人件費が入っていないこともザラです。サービスの値付けは経営のすべてになるので、産業を継続させるためには、ここをしっかりさせる必要があるんですよね」

FiTOでは、袖をつくる・カフスをつくるといった工程ごとに見積レートが設定されていて、その見積レートと作業時間をかけ合わせて、適正な価格を算出していく。感覚で決めていた価格を定量的に定めることができるのだ。

さらに、将来的には価格だけではなく、CO2の排出量も自動で算出できる機能を盛り込もうと考えている。

「マス・カスタマイゼーションは、服の廃棄を少なく売るため、サスティナビリティと非常に親和性が高いビジネスなんです。であれば、CO2の排出量を測定して、ゼロにする方法を提案できるようなシステムがつくれないかと考えています。もともとFiTOに機械の稼働時間を入力すると使用電力がわかります。使用電力がわかるとCO2の排出量も計算できるんですよね」

マスカスタマイゼーションを考えて、8年の時間が経ち、世の中の流れと木島さんの進む方向性は一致していた。

最後に木島さんは、服づくりの未来へ向けて語ってくれた。

「30年後の縫製業界や繊維産業を想像しながら、事業を組み立てたいと思っています。服づくりの未来を自分の手でつくっていきたいです。ワクワクするビジネスをこれからも展開していきたいと思います」

(取材/文:中 たんぺい

― presented by paiza

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