※こちらの記事は、「paiza開発日誌」に2019月01月25日に掲載した記事を、現在の立ち位置から加筆・修正したものです。
わたしは文系中の文系で、プログラミングのプの字も知らないところからエンジニアになりました。そして新卒で入った会社は、3年弱で辞めました。
その後、エンジニアではなくなりましたがIT業界に戻り、paizaに入社して7年以上がたちました。今もフリーランスとしてpaizaの仕事に携わっています。
エンジニアになった経験も辞めた経験もあるので、なりたい人の気持ちも、辞めたい人の気持ちも、わかる気がする……。
というわけで、この記事では、わたしがプログラミングの経験もないのになぜエンジニアになったのか、エンジニア時代はどのような感じだったのか、なぜエンジニアを辞めたのかを書きます。
プログラミングを勉強している人、エンジニアになりたい人、なったけど辞めようか迷っている人などの参考になる点があるかもしれません。
目次
典型的なダメ就活生時代
文系出身でエンジニアになった人は、一生のうちに100億回くらい「なんでエンジニアになったの?」ときかれるかと思います。わたしの場合、この回答は「エンジニアの求人しか内定が出なかったから」以上でも以下でもありません。
当時のわたには、やりたい仕事や企業選びの軸もなく、部活やサークルもやっておらず、アピールになる話もとくにありません。そもそも人と話すのが苦手で、一次面接すらなかなか突破できない典型的なダメ就活生でした。
そんなある日、就活課の掲示板で「文系・未経験でも研修するから絶対大丈夫! 僕と契約してシステムエンジニアになってよ!」という求人票を見つけました。
素直なわたしは、「そんな仕事があるんだなあ」と何社かに応募します。すると、今までが嘘のように選考を通過できて、複数企業から内定をいただけるではありませんか。きっとわたしは、エンジニアになるために生まれてきたんだわ。どんな仕事か知らんけど。
入社先は、東京と名古屋で受託開発をしている企業に決めました。
選んだ理由は、名古屋支社に配属してもらえるし(名古屋の大学に通っていたので)、企業の規模がそこそこ大きいし(小規模な企業はなんとなく不安だった)、一次面接に遅刻しても内定をくれたのが好印象だったからです。内定ないやつが面接に遅刻するな。
楽しくもしんどい新人研修時代
入社してみたら同期は60人もいて、「学校みたいで楽しい!」と思いました。そのうち10人以上が1年以内に辞めていくのを、そのときのわたしはまだ知る由もありませんでしたが。
研修は、なぜかC言語でおこなわれました。いやC言語はよい言語ですが、初心者向けとは言いがたい。そもそも業務では、ほとんど使われていませんでした。
研修を受けて勉強はするものの、プログラミングは(というかC言語が?)とにかく難しくて、まったくわかりませんでした。わからないから楽しくない。楽しくないから勉強もしたくない。楽しいのは、研修終わりに同期と飲みに行く時間だけでした。初任給もらう前から毎日飲みに行くな。
内定承諾の際に「最初は3か月新人研修がありますけど、入社までにプログラミングの勉強をしたり本を読んだりしておくといいですよ」と言っていた人事担当者の顔が走馬灯のように思い出され、その日から一秒たりとも勉強しないまま入社した自分を呪いました。
それでも一応研修が終わるころには、C言語とC++で基本文法レベルは書けるくらいの状態になっていました。いや、エンジニアとしてはまったくスキルが足りませんが。
最初の配属先は炎上プロジェクト
前述の通り、名古屋支社に配属してもらう予定だったのですが、研修後はなぜか東京本社に残り、常に炎上していることでおなじみの長期プロジェクトへの配属となりました。
そこでわたしは、新人によくありがちな「何をしたらよいかわからない・何を聞けばよいかわからない・何がわからないのかもわからない」役満に突入します。
メンター的な先輩もおらず、退社時間が0時以降の日もありました。この時期はおそらく同期でトップレベルの残業代をいただいていたのですが、順調に心身を病み、ある日なぜか顔面だけに壮絶なじんましんが出て倒れました。
このとき具体的にどんな仕事をしていたのか、あまり記憶がありません。おそらく脳が自分を守ろうとして記憶を消しているのだと思います。
自分のことよりも、PMから「これが理解できないってことはif文を理解できてないってことだよ」と言われていた先輩や、隣の別プロジェクトで業務を放置して帰ろうとしていた同期が、屈強なPLに詰められていた様子などを覚えています。もちろんその同期は後日辞めていきました。
客先常駐プロジェクトでの経験
前のプロジェクトがいったん締められたことで、わたしは名古屋に戻され、新規の客先常駐プロジェクトに配属となりました。
社外秘の案件でカメラ付き携帯が持ち込めず、当時はみな自費でカメラなし携帯に機種変していました。時は大写メール時代でしたから、人権を奪われた気持ちです。
ここでは詳細設計書をつくっていたのですが、自分が何をすべきなのか、何がわからないのか、最初のプロジェクトよりはわかってきました。一緒に常駐していた先輩がかなり面倒をみてくれたのもあって、最初のプロジェクトよりはだいぶまともに仕事ができていたと思います。ほぼ毎日終電退社な点に関しては、同じでしたが。
そして、常駐先に自社の人間は4人しかおらず、徐々に「なんか肩身が狭いな、エンジニアってこんな仕事が普通なのか?」と感じるようになりました。
忙しいプロジェクトだったため、途中から自社と契約したフリーランスエンジニアの人が助っ人で来てくれたのですが、毎日終電帰りなことが奥さんの逆鱗に触れたらしく、すぐに来なくなってしまいました。どういうこと!? そのあとの人員補充はありませんでした。
こんな日々がずっと続くのだろうかと思っていた矢先、おそらく予算の都合でこのプロジェクトは実装までいかず、詳細設計を終えた段階で終了してしまいました。われわれが毎日終電までつくっていた設計書はなんだったのか。その後、このプロジェクトが再開したという話を聞くことはありませんでした。
放り出されたわたしは、再び常に炎上していることでおなじみの長期プロジェクトに配属されかけます。が、それを気の毒に思ったあるPLが、次のプロジェクトに引き抜いてくれました。
二度目の客先常駐プロジェクト
カメラつき携帯NGは相変わらずでしたが、都心(といっても名古屋)の美しくて広くて社食とコンビニがあるオフィス、炎上とは無縁のほどよい仕事量、加えてPLはお客さんとかなり良好な関係を築いており、「こんな常駐案件もあるのか……」と衝撃を受けました。
しかし、わたしを引き抜いてくれたそのPLは1か月ほどで辞めていきました。いや辞めるんかいな。新人ながら、そこで初めて「いい人から辞めていく」という学びを得ました。
それから1年ほどたったころ、かの有名なリーマンショックが起きます。あのとき下請けがどんな影響を受けたのか。あらゆるプロジェクトが、突然の終了となりました。もちろんわたしがいた客先も例外ではありません。
客先や協力会社の人たちとも仲良くなっていたので、「あなたたちが偉くなって、きっとわたしを連れ戻してね」と固い約束を交わしましたが、二度と会う日はありませんでした。
悲しみの社内待機
受託開発企業なので、常駐案件が爆散した結果、多くの社員が社内待機となりました。全社的にも受注は激減、社員の給与やボーナスにもダイレクトアタックです。いま思えば、明確なリストラがなかっただけ、まだましな会社だったのかもしれませんが。多くの先輩社員が「ここにいる意味がない」となげいていました。
待機といっても、名古屋にいながら東京本社のプロジェクトを手伝うことになったり(名古屋に概要を知っている人がいないから全然進まない)、使った経験のない言語の研修資料をつくるよう命じられたりして(何が正しいのかよくわからないから全然進まない)、再度順調に心身ともに病んでいきます。
そこでようやく「もしかしてこういう業態って、プロジェクトやお客さん都合のリスクが大きすぎるんじゃない!?」と気付きました。気付くのが遅い。
さらにわたしの背中を押したのは、東京本社の手伝いタスクが遅れたときに、実作業は何もしていない課長が、再発防止振り返りミーティングを要請してきたことです。
遅れたのだから再発防止のために振り返りをするのは当然かもしれませんが、わたしは「えっ……再発防止とは……?」と衝撃を受けました。
あっちもこっちも炎上プロジェクトだらけのこの会社で、本当に再発を防止する気がある人間なんている!? いないからこうなっているのでは!? 偉い大人たちが全然再発を防止しないから若者たちが疲弊して辞めていくのでは!?
この件からしばらくして、退職を決意しました。
なぜエンジニアを辞めることになったのか
今になって振り返ると、エンジニアを辞めることになった要因は大きく2つあります。
1. 会社の体制が自分に合っていなかった
受託開発特有の、プロジェクトに左右されすぎるところが、わたしには合っていなかったのだと思います。
多かれ少なかれ、入社後に「こんなはずじゃなかった」と感じることは、誰しもあるでしょう。
ただ、これは企業選びの段階で仕事内容を調べたり、比較したりしていれば、ある程度は避けられるはずなので、自分のせいでもあると感じます。
2. プログラミングを「楽しい・続けたい」と思える適性がなかった
これはプログラミングへの入門の仕方や、最初の配属先の影響もありそうですが。「プログラミングがそれほど楽しくなく、興味を持てなかった」段階で、エンジニアとしての適性はなかったのだと思います。
最近は「エンジニアになっておけば将来安泰で、手に職をつけられる」みたいな話を聞いて、どんな仕事かもよく知らずにエンジニアを目指そうとする人もいます。
一方で実際にエンジニアになったものの、「こんなに大変だとは思わなかった」と悩んだり、退職したりする人も少なくありません。
今は、オンラインで気軽にプログラミングを学べるサービスなどもたくさんあります。まずは、そういったものを通してプログラミングに触れてみると、自分の適性を知る手がかりになるはずです。
自分の適性を知る
エンジニアは適性が分かれる仕事な上に、企業によって業務内容もかなり異なります。まずは自分の適性を知ったり、企業情報をよく調べたりするのが重要だと思います。
ただ、適性がなかったり、諦めたり、辞めたりすることになったとしても、それは悪いことではありません。
ここまで読んでいただいた通り、わたしは昔から計画性に乏しく全然ちゃんとしていない人間です。ただ、だからこそ「就活生やプログラミング初心者はここでつまずきそう」というポイントがわかって、それが今の仕事に生きています。
これは、就活やプログラミング学習がスムーズにいった人にはわからないはず……たぶん……。仕事によっては、苦い経験や特性が生かせる場面もあるんだなあ。
エンジニアを辞めて幸せになった人も、たくさんいます。そして、適性がないながらもやってきた経験も、その後の人生で無駄にはならないのだと思います。
(文:谷口智香)