筆者はフリーランス17年目のライターです。美術館のポータルサイトで武将や合戦について執筆していた経験から、「武将の生き方×現代のキャリア」について考える連載をスタートしました。
第4回は、大河ドラマ『どうする家康』でも活躍中の本多忠勝です。代々徳川家に仕える本多家に生まれ、天下無双の武将としてその名を轟かせた忠臣。
戦国の世においては、主君・徳川家康を守り、多くの手柄を立てた忠勝でしたが、晩年は不遇な扱いの中、寂しく亡くなったといわれます。
そのような忠勝の生涯から、現代のビジネスへの教訓を読み解きます。
目次
本多忠勝とは

戦国時代から江戸時代の武将・大名。徳川家康の古参の家臣で徳川四天王・徳川十六神将の一人。上総国(現・千葉県)大多喜藩・伊勢国(現・三重県)桑名藩などの藩主。
生涯に57度もの戦に参加し、武功を上げながら、かすり傷ひとつ負ったことがないといわれています。
本多忠勝のトレードマークは二つあります。一つ目は長さ2丈(約6m)の槍・蜻蛉切。穂先に止まったトンボが真っ二つになったという逸話からその名がつけられました。二つ目は、鹿の角をモチーフにした鹿角脇立兜(かづのわきだてかぶと)です。
武田軍との戦いでしんがり役(最後尾)をつとめた本多忠勝のあまりの強さに、武田家臣の小杉左近が詠んだという有名な狂歌が残されています。
「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八※」
(意味:徳川家康にはもったいないものが2つある。ひとつは唐原産の兜、もうひとつは本多忠勝)(※平八は忠勝の通称)
【飛躍ポイント】ときには家康を叱り飛ばして信頼される
放送中の大河ドラマ「どうする家康」では、筋の通らないことを嫌い、主君である家康にも堂々と意見する硬派な人物として描かれています。演じる山田裕貴さんは、まさにはまり役。
忠勝は、1549年に1歳で父を亡くし、叔父の本多忠真(演・波岡一喜)に育てられました。無類の酒好きとして描かれる忠真ですが、忠勝を剛の者として立派に育て上げたのですから、大したものです。
ドラマ冒頭、1560年の「桶狭間の戦い」では、かなり手厳しく家康に意見していた忠勝。史実によれば、このときの忠勝はなんと12歳。
ことあるごとに「こんな奴を主君とは認めない」と言い放っていた忠勝。徳川家菩提寺の大樹寺では、自害を決意した家康の介助をおこなう寸前まで行きます。しかし、家康の敵への決意表明を聞き、心動かされるシーンは印象的でした。以降は生涯にわたり、家康へ忠義を尽くすこととなります。
のちに天下を取る家康も、順風満帆だったわけではなく、幾度も死を覚悟するピンチに襲われました。とくに家康三大危機と呼ばれているのが、「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「神君伊賀越え」です。
「三河一向一揆」では、忠勝や叔父の忠真は家康方に付き、同じ本多一族で遠縁の正信(演・松山ケンイチ)は家康を裏切って一向宗方で活躍します。
実は本多家の宗派は一向宗。正信以外にも、本多一族のほとんどが一向宗側に付きました。そのような中、忠勝と忠真は一向宗から浄土宗に改宗してまで、家康側として戦ったのです。
「三方ヶ原の戦い」は、家康の生涯でも最大の負け戦といわれ、叔父の忠真はこの戦で亡くなっています。
「神君伊賀越え」とは、「本能寺の変」で明智光秀に織田信長が討たれたときに、家康が大阪から伊賀の山を越えて三河に帰還したことを指します。
信長と同盟を結んでいた家康は、光秀に追討される恐れがありました。このときわずか数十人の供しか連れていなかった家康は、絶望して自害しようとします。これを諫め、伊賀越えを実行させたのが、忠勝だったといわれています。
家康のためなら宗派も変え、ときには叱り飛ばす。それほど主君思いの忠勝を、家康が信頼し、重用したのは当然のことでしょう。
【ターニングポイント】敵将もたたえた武勇伝説~槍の名手として徳川四天王に
忠勝は、6メートルもの槍を愛用していました。それが「天下三名槍」に数えられる「蜻蛉切」です。彼は、蜻蛉切を手に、常に戦いの中でも最も危険が伴う役目を請け負います。非常に軽装で出陣しても、無傷で帰還したことも有名です。
浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍との戦いである「姉川の戦い」では、織徳軍は敗色濃厚でした。しかし、ただ一人朝倉軍に、忠勝が正面から切り込んでいったのを突破口に、織徳軍は勝利。
武田軍との戦いでは、軍の最後尾であるしんがりを務めて敵の追っ手を食い止め、家康のいる本体を逃がしてピンチから救ったのです。
武勇優れた忠勝の忠臣ぶりは、多くの戦国大名たちにたたえられました。織田信長は「花実兼備の武将」、豊臣秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」と評したと伝わっています。
このような功績から、家康が豊臣秀吉に追従した1586年には従五位下に叙位。1590年に家康が関東に移封されると、上総国大多喜藩10万石の大名となります。
1600年の関ケ原の戦いでも手柄を上げ、その功績から伊勢国桑名10万石に移封されました。家康は加増を申し出ましたが、忠勝が固辞したと伝わります。
忠勝は徳川家康を支え活躍した「徳川四天王」(または「徳川三傑」)のひとりに数えられています。非常にもてはやされたともいわれていますが、忠勝が活躍したといえるのは、このあたりまで。
【失敗ポイント】太平の世では無用の武力
天下無双の誉れ高い忠勝も、老いには勝てませんでした。関ケ原の戦いのころには50歳を過ぎていた忠勝は、関ケ原のあと、蜻蛉切の丈を三尺(約90cm)ほどに切り詰めました。なぜかと問う家臣に「武器は自分の力に合ったものでなくてはいけない」と答えたという逸話が残っています。
忠勝は、初代桑名藩主に着任すると、その手腕を振るいました。手始めに桑名城の城郭建造と城下町の整備を行います。民には名君と慕われ、武勇だけではない一面も覗かせました。
しかし、時代は移り変わり、平和な世の中で幕府が求めるのは、戦場で強い者ではなくなっていたのです。忠勝の遠い親戚にあたる本多正信など、「知力に長けた者」の出番が増えていきます。
「どうする家康」序盤でも、忠勝と正信の確執は描かれます。悪知恵だけが働き、実戦で戦おうとしない正信を、忠勝は「腰抜け」とののしり「あのような者は本多一族ではない」と突っぱねます。
その正信に負ける日が来ようとは、若き日の忠勝は予想だにしなかったでしょう。
忠勝は少しずつ政治の中枢から外され、閑職に追いやられて行きます。1604年ころからは病がちになり、1609年には嫡男に家督を譲って隠居。その翌年には亡くなってしまいました。
辞世の句は「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな、深きご恩の君を思えば」
(意味:死にたくない、ああ死にたくない。死んでしまったら、主君・徳川家康の恩に報いることができない)
死の間際まで家康に忠節を捧げました。
忠勝のようなケースは、現代社会でもごく普通に起こっていることです。
従来の営業といえば「足で稼ぐのが当然」でした。その時代にトップの成績を誇った営業マンが、SNS時代の営業に苦労するのは、珍しい話ではないでしょう。
また、創業時には重要だった製造現場に対して、企業規模が大きくなってからは、数字を分析する人間が重用されるようになるのにも似ています。
あるいは、子どもの頃には足が速くてスポーツのできる男子がモテるのに、大人になって結局美人妻を勝ち取るのは東大卒のエリートというのも、これに近い図式かもしれません・・・ちょっと違うか。
時代が求めるものに合わせて「変化」が必要
徳川四天王に数えられる槍の名手・本多忠勝は、戦場で何度も主君・徳川家康の命を救いました。そのような歴戦の名将ですら、平和な世では役立たずのロートルとして官職に追いやられました。
そこから現代のわたしたちが学べるのは、どれほど大きな功績を上げても、時代の波に乗れなければ、取り残されてしまうということです。
現代社会はめまぐるしく移り変わっています。昨日の常識が明日はもう通じないかもしれません。とくにAIの登場で、数年後も今の職があるかどうかすら、わからなくなってきています。
現代社会はもしかすると、戦国時代以上の乱世なのかもしれません。生き抜くためには、「常に変化できること」が求められていくでしょう。
(文:陽菜ひよ子)