ChatGPTやClaudeに代表される生成AIの台頭により、知的労働のあり方が急速に変わりつつあります。カメラやセンサー、ロボットなどを通じ、AIが物理的な世界に直接アクセスしてタスクをこなす。「フィジカルAI」と呼ばれるこの領域は、大きな注目を集めています。

今回お話を伺ったのは、こうしたフィジカルAIの社会実装を掲げて、2024年に設立されたトロン株式会社の代表取締役CEO 和嶋渓さんです。

東大文学部卒、ゲームプロデューサー、FA(ファクトリーオートメーション:工場でのものづくりを自動化する仕組み)技術商社という異色のキャリアを歩んできた同氏が、なぜ起業に至ったのか。名古屋の「STATION Ai」を拠点とし、フィジカルAIの力で日本の製造業を変革しようとしている理由についても、詳しくお聞きしました。

和嶋 渓さん プロフィール
東京大学文学部卒。新卒でモバイルゲーム会社に入社し、その後はFA(ファクトリーオートメーション)技術商社を経てトロン株式会社を創業。2025年に名古屋のSTATION Ai内へ自社ラボを開設。

東大文学部からゲーム、FA業界へ。技術に惹かれた異色の歩み

――まずは和嶋さんのこれまでのキャリアについて教えてください。東大文学部ご出身と聞いて変わったキャリアだなと感じたのですが。

和嶋さん(以下、和嶋):そうですね。私は東京大学の文学部を卒業しているのですが、昔からITテクノロジーやイノベーションに興味があって、大好きだったんです。就活の時期は、孫正義さんがiPhone 3GSを日本に導入した、スマートフォン元年で、当時から「自分もこの技術に関わる仕事がしたい」と強く感じていました。

ただ、当時はまだスマートフォンが一般に普及し始めた段階で、産業として成り立っていたのは主にゲームの分野だったんです。それでモバイルゲームの会社に入社し、そこから7年ほどは、ゲームプロデューサーやディレクターとして企画の仕事をしていました。

――もともとテクノロジーがお好きだったとのことですが、「作る側」を目指すきっかけとなるような原体験があったのでしょうか?

和嶋:大学時代にバンド活動をしていたのですが、音楽が好きというよりは、サンプラーやシーケンサーといった最新の機材に興味があったんですよ。それらで新しい音楽を生み出したり、コミュニティやイベント制作のためにWebの技術を使ったりするのが楽しくて。思えば当時から、テクノロジーを使って何らかの経験を生み出すことに没頭していました。

ゲームを作っていたころも、自分の会社を運営している現在も、そういった原体験を追い続けているような感覚です。

――文系出身でプログラミング未経験から、IT系の領域へ挑戦するのは大変だったのではないでしょうか?

和嶋:そうですね。最初はHTML/CSSやプログラミングの勉強が必要でしたが、重要なのはやはり「自分でつくってみること」だと思います。

こうした自分の手を動かす経験は、技術の勉強になるのはもちろん、企画や事業開発、起業をする上でも役立ちます。エンジニアやクリエイターと、対等に会話するための基礎になりますからね。

――ゲーム会社で7年勤務されて、今度はまったく異なる領域のFA業界へ転職されたのですね。

和嶋:7年もたつとスマートフォンは当たり前のインフラになり、ゲームもコモディティ化していきました。それで、今度は「もっと新しい技術に触れたい」と考えるようになったんです。

和嶋:私が転職をした2017年ごろは、ディープラーニングやAMR(自律走行搬送ロボット)、3Dビジョンなどを工場で活用する波が来始めた時期でした。

そこでFA系の技術商社へ転職し、ハイパースペクトルカメラ(人間の目や通常のカメラでは判別できない成分や状態を可視化するカメラ)やロボットピッキング、AMRの群制御といったロボット製品の事業開発を約7年間担当しました。

――プロダクトが画面の中(ゲーム)から物理(FA)へ移ったわけですが、どのようなギャップややりがいがありましたか?

和嶋:画面の中の世界では、バグがあってもコードを直せば動きます。でも、物理の世界では重力や摩擦、部品の個体差、ほこりや太陽光などの「仕様外の入力」が影響して、うまく動かないことが頻繁にあるんです。

こうした要因を一つひとつ潰していき、最終的にロボットや装置が思い通りに動作したときは非常に達成感がありますね。

また、我々の生活や経済は、あらゆる産業によって支えられています。FAの世界に飛び込んだおかげで、一般にはあまり知られていない製造技術や、優秀な技術者の方々と接した経験は、その後の起業にもつながっていると感じます。

36歳での起業。リスクを取ってでもテクノロジーを届けたい

――会社員として事業開発をされていた和嶋さんが、なぜ起業を決意されたのでしょうか?

和嶋:私は、新しい技術やイノベーションが生まれ、世の中に普及していくときのワクワク感やエネルギーが大好きなんです。

ただ、会社員である以上は「この技術が数年以内にスケールするか」「ビジネスとして短期的に成立させられるか」を、限られた時間の中で厳密に評価しなければなりません。保守的なファクトリーオートメーションの世界では、真に革新的な技術が現場に定着するまで、どうしても時間がかかります。

そんななかで、会社が「この事業からは撤退する」と判断したときには、その技術を信じて賭けてくれたお客様や、海外のベンダーさんの期待に応えられなくなってしまう。そこに、会社員としての限界を感じたんです。

それで「テクノロジーが本当に定着するまでを見届けるには起業するしかない」と思い立ち、36歳のときにトロン株式会社を立ち上げました。

――画面の中で動くシステムではなく、実体のあるフィジカルAIにはどのような魅力があるのでしょうか?

和嶋:画面の中のAIは、知的労働の効率化を進めてくれます。一方で、物理的に動くフィジカルAIは、日常のささいな作業を直接支援してくれるポテンシャルを持っています。現実世界にダイレクトに働きかけて、生活や産業を支える。そのポテンシャルの高さに惹かれました。

東京からSTATION Aiへ。敢えて名古屋にラボを開設した理由

――トロン株式会社は登記が東京にありますが、開発の現場やラボは名古屋の「STATION Ai」にあるそうですね。

和嶋:起業したときは私の自宅からスタートしました。その後は事業が拡大し、ロボットを取り扱うようになって、実験場(ラボ)が必要になったんです。

弊社の主なお客様は、愛知県をはじめとする東海地方にある、大手製造業の企業様です。そこで、お客様と一緒にロボットを動かし、実験を見てもらえる環境をつくるため、2025年10月にSTATION Ai内に自社ラボを開設しました。

現在、バーチャル工場(仮想空間に工場を再現し、生産シミュレーションなどを行う仕組み)を担当しているエンジニアは、フルリモートで勤務しています。ただ、ロボットの実機を扱うエンジニアはほぼ全員が名古屋に居住し、STATION Aiに出社しています。

――STATION Ai内に拠点を持ったことで、どのようなメリットがありましたか?

和嶋:メリットは数え切れないほどありますね。

まず、お客様との距離感が近くなりました。取引先である製造業の企業様も、同じSTATION Aiに入居していたりするんですよ。だから、「ちょっと今から見に行きます」といったやり取りが日常的に発生しています。

また、大企業の役員クラスの方々がSTATION Aiの見学に来られた際に、ガラス張りの弊社オフィスでロボットが動き回っているのを見て、「ここでは何をしているの?」とふらっと来られることもあるんです。オフィスにロボットを置いておくだけで、最強の営業になっている状態です。

あとは採用面でも、STATION Aiで求人の張り紙を見て応募してくれる人が結構いるんですよ。実際に、正社員1名、インターン7名ほどをSTATION Ai経由で採用しています。

――STATION Aiとのコラボプロジェクトも進んでいると伺いました。

和嶋:館内にロボット向けのデータ収集センターを構築するプロジェクトを、STATION Aiと共同で推進しています。STATION Aiという場を活かして、フィジカルAIに必要なデータを収集したり、実験したりできるラボをつくる予定です。

テストを仮想空間で高速化。3K作業をロボットが担う未来へ

――フィジカルAI領域の技術トレンドや、事業展開の方向性についても教えてください。

和嶋:フィジカルAI領域は進化のスピードが非常に速く、市場のニーズもどんどん変わっていきます。トロンでは、時代に合わせて注力ポイントを柔軟に変えています。

工場のバーチャル化と、シミュレーション空間でロボットの学習データをつくる技術。これは、起業当時から現在まで変わらず、事業の核となっています。

また、以前は海外からハード(実機ロボット)を輸入して動かすことが中心でしたが、最近はAIの学習データ不足が大きな壁となっています。そのため、最近ではデータ収集と加工に注力しています。

さらに、この次にやってくる壁は評価(シミュレーション評価)だと考えられます。集めたデータでAIを育てても、巨大なロボットを稼働中の工場に持ち込んで何度もテストするのは非現実的です。今後は、シミュレーション上でAIの精度や安全性などを高速に評価できるツールや仕組みが確実に必要となります。

――今後、具体的にどのような現場でロボットやフィジカルAIの導入が進んでいくと思われますか?

和嶋:大きく分けて3つの領域があると考えています。

まずは、マルチタスク。たとえば介護現場では、「食事をつくる→配膳する→ベッドを起こす→食べさせる」といった一連の仕事がありますよね。フィジカルAIは、このような1つの専用ロボットでは対応できなかった複数の仕事を、柔軟にこなせるようになることが期待されています。

次に、判断のバリエーションが多い作業。たとえば倉庫のピッキングなどで、「柔らかい商品や高級品は慎重に扱う」といった、タスク自体は単純でも判断の種類が膨大な領域です。

最後に、3K(きつい・汚い・危険)作業。人間がするには危険が伴う現場や、負担の大きい仕事は、ロボットを積極的に導入すべき領域です。

――「ロボットが人間の仕事を取り上げる」という懸念についてはどうお考えですか?

和嶋:そういったディストピア的な考えもあるかと思いますが、むしろ逆だと感じています。

現在、人手不足で最もダメージを受けているのは、優秀な若手や中堅の社員たちです。人が集まらないなかで腫れ物に触るように慎重に人を育て、育ったと思ったらすぐに退職され、その穴埋めに追われて、本来のイノベーティブな仕事に集中できない。これこそが本当のディストピアです。

ロボットが単純作業や3Kの仕事を肩代わりしてくれれば、人間はもっとクリエイティブな価値創造に時間を使えるようになります。日本はロボットに対する国民的な親近感も高く、フィジカルAIを社会実装する上では恵まれた環境があると思います。

理由不明のトラブルを楽しむ。実機に触れる時間がエンジニアを育てる

――ITエンジニアのなかには、「自分はロボットやフィジカルAIの分野で通用するのだろうか?」と考えている人もいるかと思いますが、いかがでしょうか?

和嶋:現在、トロンにはエンジニアが8名います。そのうち「AIとロボットの両方を学生時代からやってきた」という専門人材はごく少数です。大半のメンバーは、Web開発やAI・機械学習領域の背景を持ち、ロボットなどの実機に触るのは入社後が初めてでした。

Webと実機の一番の違いは、実機は理由がよくわからないまま動かなくなるという点です。

Webの世界であれば、エラーログを読んだりコードを追ったりすれば原因が特定できますよね。でも、ロボットは電流のノイズ、部品の微妙なズレ、センサーの不調など、目に見えない理由で突然動かなくなったり壊れたりします。

そこでWeb出身のエンジニアが陥りがちなのが、「ハードが動かないので自分ができることはここまでです」と立ち止まってしまうことです。

一方で、高専出身者やロボコンの経験がある人は、「動かないなら分解してみよう」「3Dプリンターで補修パーツをつくってみよう」「メーカーに連絡してみよう」と、ブロッカーを自ら壊していける推進力があると感じます。

――実機の領域では、そういった泥臭い課題解決能力が求められるのですね。

和嶋:そうですね。入社時のスキルそのものよりも、実機に触れている時間と粘り強く取り組んでトラブルを解決した経験がものを言います。

そのためトロンでは、エンジニア全員に専用の相棒ロボットを1人1台支給しているんです。また、20名ほどいるインターン生には「SO-ARM」というフィジカルAI入門キットを自宅に送り、「まず一人で組み立てて動かしてみて」という課題を出しています。

実機に触りまくれる環境と、トラブルにも泥臭く取り組めるマインドがあれば、Web出身のITエンジニアでも、あっという間に第一線で活躍できるようになると思います。

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