筆者はフリーランス17年目のライターです。美術館のポータルサイトで武将や合戦について執筆していた経験から、「武将の生き方×現代のキャリア」について考える連載をスタート。
第5回は上杉謙信。大河ドラマ『どうする家康』に登場する「ラスボス感」のある武将・武田信玄のライバルであり、戦国最強の武将です。
「義」を重んじ、援軍を求められれば必ず助太刀する「男気」のある武将として、「好きな武将ランキング」では常に上位に名前が登場。(実は筆者自身も、謙信推しです)
しかし、彼の生涯をていねいに見ていくうちに「彼は本当に義に厚い人だったのだろうか?」と疑問に思うようになりました。謙信の生き方から、現代のビジネスパーソンが読み取れる「キャリア上の学び」について検証します。
目次
上杉謙信とは

戦国時代の越後国(現・新潟県)の武将・大名。越後守護代・長尾為景の子として誕生。のちに、関東管領上杉憲政より「山内上杉家」の家督を譲られ、上杉姓を名乗ります。
戦国大名屈指の戦上手で、勝率はなんと9割以上。「軍神」「越後の龍」などと称されました。内乱続きの越後国を統一し、内政にも尽力。ビジネス感覚もあり、当時衣料の原料だった青苧(あおそ)生産や海上交易によって多くの利益を上げました。
49年の生涯で約70回もの戦に出陣。とくに甲斐(山梨県)の大名・武田信玄と12年間で5回戦った「川中島の戦い」はよく知られています。
私生活は謎が多く、生涯独身を通したため、女性説も根強く残ります。その謎めいたところも、歴史ファンの心をくすぐるのかもしれません。
【挫折ポイント】「川中島合戦」最中に突然の出家
上杉謙信は1530年に越後国で誕生。父・長尾為景の隠居後、家督は兄の晴景が継ぎます。
謙信は7歳から林泉寺に預けられ、学問や武道を学びました。このころに毘沙門天(びしゃもんてん:四天王の一尊・多聞天と同一で戦いの神)を信仰しはじめ、自身を毘沙門天の生まれ代わりであると信じていたと伝わります。
父・為景は越後国をまとめきれないまま病没。病弱な兄・晴景には反対勢力を抑える力はなく、内紛状態となります。兄を助けて栃木城を治める謙信のもとへ、1544年、謀反を起こした豪族が攻めてきました。
謙信はこのときまだ14歳。この栃木城の戦いが初陣だったにもかかわらず、兵を二手に分けて敵を背後から急襲し、見事勝利しました。19歳で兄・晴景の養子となって家督を相続し、21歳で越後国を統一します。
やがて謙信はその強さや義理堅さから、周辺の豪族や武将に援軍を頼まれるように。その一つが信濃(長野県)の村上義清の要請で宿敵・武田信玄と戦った、「川中島の戦い」です。
12年も続いた川中島の戦いにおいて、武田信玄は非常に卑怯な手を使い、そのたび謙信は憤ったといいます。
12年の間に謙信は、関東管領・上杉憲政の求めに応じて、関東の後北条氏とも何度か衝突しました。謙信が関東に出陣すると、信玄は、ここぞとばかりに信濃を攻めて、謙信が守った領土を奪い取ってしまうのです。仕方なく謙信は、関東を途中で放り出して信濃に向かうため、関東も信濃も中途半端な結果に。
また、謙信の治める越後では冬になると雪に閉ざされて出陣ができません。秋までに獲得した領土を冬の間に奪われてしまい、春にまた最初からやり直し、のくり返しだったともいいます。
家臣の裏切りや国人層の離反も相次ぎ、ほとほと嫌気がさしたのでしょう。謙信は、居城・春日山城に建てた「毘沙門堂」にこもるようになります。
1556年、26歳の謙信は、ついに「出家する」と告げて出奔、一人高野山へ向かいました。あわてて追いかけた家臣が大和国(奈良県)で追いつき、必死に懇願した結果、何とか出家を思いとどまったとされています。
「今後は二度と裏切らない」旨、家臣たちに誓わせた結果、越後国では反乱が治まりました。謙信の出家は本気ではなく、臣下を従わせるための単なる「おどし」だったとも言われていますが、本当のところはどうだったのでしょうか?
【ターニングポイント】長尾家から関東管領・上杉家の当主に
1561年、31歳の謙信に転機が訪れます。関東管領職の上杉憲政から要請を受け、山内上杉家の家督と関東管領職を相続したのです。将軍・足利義輝より正式に関東管領に任命され、ついに足利宗家の外戚に連なる名門・上杉氏となった謙信。
そもそも、謙信の生家・長尾家は越後の守護代。父・為景が守護の越後上杉家を傀儡として権勢を振るったにすぎません。そのため、為景の支配を認めない家臣によって、反乱が相次ぎました。
謙信の代で幕府より正式な守護代行を命ぜられたものの、「長尾家」のネームバリューでは、当然反発する者もいたことは、想像に難くありません。
上杉氏、そして関東管領となった謙信には、関東平定のために後北条氏を討つ大義名分ができました。正当な甲斐源氏の末裔・武田氏とも対等にわたり合えるようになったのです。
武田信玄は、謙信が関東管領職となり、自分を上回ったのがおもしろくなかったのか、死ぬまで謙信を「長尾」と呼び続けたともいわれます。
余談ですが、前作の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、源氏の棟梁・源頼朝は「征夷大将軍」に就きます。この「征夷大将軍」とは“蝦夷征伐軍”の最高位で、「鎮守府将軍」と同意。頼朝の祖先である源義家が、鎮守府将軍として蝦夷征伐を果たしたことから、征夷大将軍=源氏ともいわれます。
北条義時があそこまで血なまぐさい粛清を行っても鎌倉幕府が130年ほどで滅びたのは、棟梁が「源氏」ではなくなったからと考えられます。室町幕府を開いた足利尊氏は頼朝と同じ源義家の子孫。尊氏は執権北条氏を滅ぼして、征夷大将軍の座を源氏の手に取り戻したといえるのです。
執権北条氏がどれほど頑張っても、源氏の血には勝てませんでした。武家社会や戦国の世においても、血筋や家柄は重要だったのです。
なお、「征夷大将軍=源氏」の図式は時代を経るほど強固になり、源氏の血筋でなければ武家として出世できないといわれるように。そのため、武士は皆こぞって「源氏」姓を名乗るようになります。「どうする家康」で、家康が徳川に改姓する際、源氏の血筋だと証明するために、家系図をひっくり返したのも、そのためです。
【失敗ポイント】死因は酒の飲みすぎ?原因は?
さて、ここで話を主題に戻します。「はたして謙信は、本当に『義』に厚い人だったのか?」について考えてみましょう。
マジメで正義感の強い謙信の中には、確固とした「信念」がありました。それに反する行いは断じて許せない、と考えていたのは確かでしょう。
謙信が後北条氏征伐に乗り出したのは、後北条氏が関東管領・上杉氏を攻めて関東をわが物にしようとしたから。足利義昭将軍を京より追放した織田信長についても、謙信は激しく怒っています。
謙信のそうした一面は「義に厚い」と評価される反面、「権威に弱い」「形式主義」と言われることも。確かに、弱体化した室町幕府体制を守ろうとしたり、関東管領職にこだわったりしたことは、そう見えなくもありません。
しかし、謙信が幕府と協調したのは、戦国の世を鎮め、幕府支配の安定した社会に戻したい想いがあったとされます。前述のように、長尾時代の謙信の立場は微妙でした。謙信が武田や北条や織田を討つための後ろ盾として、上杉の名や、関東管領の地位は必要だったと考えられます。
また長尾時代の謙信は、越後守護としての足場が脆弱だからこそ、周りとの協調を心がけ、援軍の要請に応じたのかもしれません。
謙信は初陣から死ぬまでの34年間で約70回出陣しています。これは、年に2度以上の割合で戦に出ていた計算で、さらに冬は出陣できないことを考えれば、驚異的な数字です。
もう疲れた、休みたい、と思うこともあったでしょう。謙信の酒の飲み方は孤独だったといわれます。雪深く薄暗い越後の冬、一人ちびちびと酒を飲む。心のうちは、敵対する武将や離反する家臣への怒りや憤りで、フツフツと黒いもので満たされていたでしょう。
謙信は、心の病だったのではないか、と筆者は考えています。うつ状態でひとり酒を飲み、躁状態で戦った、躁うつ病患者だったのではないかと。そう考えて資料を探すと、同様に考える専門家も少なくないことがわかりました。
49歳で死亡した謙信の死因は、脳卒中だというのが定説です。高血圧、糖尿病などの生活習慣病やアルコール依存症が原因だと推測されます。
問題はストレスと飲酒でしょうか。なんだか、昨今でもよく聞くキーワードではありませんか。
謙信のケースを、現代の私たちに置き換えてみると、決裁権を持たない中間管理職や、なまじ有能なために、あれもこれもと押し付けられてしまう一般社員などが思い浮かびます。
どちらも実際には権限を持たないのに、あれこれ面倒ごとに巻き込まれて、疲弊するだけ、という点は同じです。相談されて、精一杯誠意をつくし、上司に掛け合ったりしてみても、意外と相手は、簡単にこちらの気持ちを反故にしたりするものです。
そのような日には、ひとりヤケ酒をあおり、呪いの言葉の一つも吐きたくなるでしょう。
しかしこのようなケースに必要なのは、断じて酒ではありません。面倒ごとから、のらりくらりと「逃げる力」、あるいは、ハッキリと「断る力」です。
きまじめな謙信は、自分を頼ってくる者から逃げることはできなかったでしょう。でも「義に厚い」というより本当は、「断りたいのに断れない」。彼の本音は、案外そのような感じだったのかもしれません。
「逃げる力」「断る力」を身につけ、自分の心を守る
日々「生きるか死ぬか」命がけだった戦国時代のストレスは、いったいどれほどのものだったでしょう。しかし、この連載で改めて現代のキャリアについて考えるにつれ、「現代も乱世だ」の想いを強くします。
弱い者に頼られると必ず助太刀する『義』に厚い武将として知られる上杉謙信。しかし、さまざまなエピソードから、謙信は、実際には「断れない人」だったのではないか?そして、怒りを心にためやすい性格から「心の病」に陥ったのではないか?と考えました。
現代社会はキャリアに関して多くの道を選べる反面、一筋縄ではいかないケースも多いもの。残念ながら、「まじめにコツコツやりさえすれば成功する」ような単純な社会ではありません。どれほど誠実に物事と向き合っても、要領よく横から成果だけを奪われることもあります。そもそもブラックな企業においては、誠実さは「搾取されやすさ」と同一でしかありません。
そうした社会の中で自分のメンタルを守るためには、面倒なことからは徹底的に「逃げる」「断る」力を身につけることが、必須だといえるでしょう。
(文:陽菜ひよ子)