就職活動で夢見ていた企業に入れなかった。好きな仕事に就いたけど、自分には向いていないと知って後悔をしている。自分のキャリアにとって、今の経験が無駄なのではないかと思ってしまう……。働く日々のなかで、こんな気持ちにとらわれて仕事にやりがいを感じられなくなる人は多いだろう。SNSで同世代の活躍を見て焦ってしまうこともあるかもしれない。
ただ悩んでいるときこそ忘れていないだろうか。SNSでキラキラ輝いている人が同世代なら、自分も同じくらいの年数を生きている。輝いているように見える人がしていない経験を、自分はしているはずだ。
そう考えるのは無駄なことだろうか。自分の人生にとって意味がないことだろうか。
私は、学生時代のアルバイトを含めると、両手の指の数と同じくらい、さまざまな職種を経験した。職場で鬱になって会社員をドロップアウトしたこともある。だからこそ言える。仕事でどのような経験をしても、決して無駄にはならないと。
目次
ひとつの言葉が私の宝物に

「凄く良かった。どこかで話す仕事をしていらしたの?」
今から5年近く前だった。文筆業のかたわら、外国人に日本語を教える日本語教師として働いていた私は、日本語学校の卒業式の司会をすることになった。以前、ナレーターの仕事をしていたことから、司会に選ばれたのだ。休憩時間にそのように声をかけてくれたのが、30年以上日本語教育に携わっているベテランの先生だった。
「大したことじゃないんです、少しだけナレーターの仕事をしたことがあったから」
私が答えると先生は「なるほど。だからなのね」とうなずいた。
「どんなことでも経験は無駄にはならないでしょう」
この一言が、私のキャリアのすべてを言い表しているような気がした。
企業の役員秘書、企業受付、車の展示場での受付、総務、日本語教師、イベントコンパニオン、ナレーター、アイドル、書店員、そしてライター。
大学生時代のアルバイトも含めて、今まで携わった職種を数えると、ちょうど両手の指の数と同じだ。日本語学校の卒業式の日、ベテランの先生に「どんなことでも無駄にはならないでしょう」と言われるまで、私はそのことをポジティブに考えたことはなかった。
挫折を繰り返して鬱になったことも
経験した職業のうちの、書店員と総務業務はミスの連続だった。後にADHDの診断を受けて精神科医からその特性ではないかと告げられるのだが、私は不器用で整理整頓や金銭の管理が伴う仕事は、どんなに努力してもうまくいかない。
総務の仕事では会議の後に会議室を整える業務がとくに苦手で、仕事が終わって残業時間を記録した後も、何度も同じ会議室を見直しに行ったのだが、次の日には同じ部署の先輩に「机といすがずれてるのがわからない?」と聞かれた。先輩にとっては「簡単ですぐにできること」が、私にとっては何度確認してもうまくいかないことだった。
総務業務は企業受付の仕事も兼ねていた。1社目の会社を退職した後、初めて正社員として勤務した2社目での担当業務である。
一方、もうひとつの受付の仕事で、社外のお客様と接することは得意だった。おそらく学生時代の書店バイトの接客経験と、前職の秘書業務で来客対応をする機会が多かったことが生きたのだろう。先輩は「受付だけができる企業なら良かったね」と言った。なぜできることとできないことの幅がこんなに大きいのかわからず、しだいに鬱状態に陥って退職をすることになる。
当時は自覚していなかったが、私のキャリア形成は会社員をドロップアウトしたそのときから始まっていた。
苦しみは得意なことを知るきっかけになった

前述したように私はコミュニケーション能力に自信がある。学生時代に書店のレジでお客様と話す機会が多かったことから始まり、大学卒業後に就職した企業の常務秘書になってからは、常務のもとに、数々の企業の経営者や役員が訪れた。私は20代前半だったが、30歳以上年の離れている彼らが満足するような接客スキルを求められた。
来客以外でも、担当する常務に失礼だと思われれば他の秘書にとってかわられる。ビジネスメールの作成にも念を入れた。ほかの同期が他部署で秘書をしていたこともあり、お互いにメールの文章を作り合って確認をし、「幸甚です」は社外に向けて使う言葉であって社内では使ってはいけない等、初歩的なことから学んだ。秘書としての能力を上げるために猛勉強をして受けた秘書技能検定1級に合格したことも大きかった。1級をとるために学んだことは仕事ですぐに実践できたからだ。
コミュニケーション能力は、私のキャリア形成で最大の武器になった。東京モーターショー、東京ゲームショウといった展示会でイベントコンパニオンをしていたころもその武器は使えた。衣装を着て企業のブースに立っている間は、疲れていてもヒールの高い靴で足が痛くても、笑顔で接客をし続ける。それはイベントコンパニオンに求められる業務のひとつだ。業務をこなそうと頑張っている姿は評価につながり、クライアントの指名で仕事の依頼が来ることもあった。
アイドル活動ではファンサービスのスキルとしても使えた。ファンに対して恋人のような振る舞いをするアイドルグループの先輩もいたが、自分にはそれができないことを自覚して、どんなときも見ている人を意識して笑顔でいようと頑張れたのは、接客の経験があったからにほかならない。
そして接客以外でも、私はさまざまな仕事でいろいろなスキルを得た。
資格をとって就いた日本語教師の仕事は、始めこそ学生20名の前に立つと唇が震えた。学生時代のゼミの教授は、プレゼンではなく対話によって研究内容を深掘りさせてくれる人だったので、それまで大勢の人前で話す仕事はほとんどしたことがなかったのだ。
人前に立って話すとき、緊張しなくなる方法はない。ただ3カ月も経つと慣れてくる。私は唇の震えがなくなり、学生それぞれの目を見ながら教えることができるようになった。
自分の経験が新しい仕事を持ってきた
日本語教師を始めた2013年は、私がフリーライターになった年でもある。ライターは、これまでの仕事で得たもの、すべてを生かせる仕事だった。
ライターになったきっかけからしてそうだ。日本語教師の仕事を始めてまもないころ、資格をとるために通っていた恩師から連絡があった。
「在留外国人や日本語の先生が読む雑誌のライターを知り合いが探しているんです。日本語教師の資格があって、なおかつ書ける人が良いそうなのですが、どうですか」
そのころの私はと言えば、日本語教師もまだスタートを切ったばかりでヒヨコレベルだし、「書ける」といってもWebでたまにコラムを書く程度で、プロのライターとは言えない。しかし先方はかなり急いでいたようで、面接に行った日に採用が決まり、初めての勤務日にいきなり「今から外国人学生の多い専門学校にインタビューしに行きますよ」と、編集長の車に乗せられた。
当時の私はインタビュー経験がゼロ。しかもその日にインタビューをすると聞いていなかったので、ボイスレコーダーも持っていないし心の準備もできていない。
もちろん緊張した。しかしそれが他の人にばれないように、自信のあるふりをした。
「自信のあるふり」が「ふり」ではなくなる

この「自信のあるふり」も秘書時代に培ったものである。秘書をしていたのは20代前半だった。若くて社会人経験が乏しいとはいえ、自信のなさを表に出したら「この企業はこんなに頼りない人を秘書にするのか」と思われてしまう。実際の自分は「頼りない人」そのものだったのだが、自信のあるふりをしていると、周囲からも「しっかりしてるね」と良い意味で誤解された。
その経験を踏まえて編集長の前でも取材対象者の前でも、自信のあるふりをした。
最初の取材は専門学校に通う外国人学生だったので、日本語が堪能だとはいえ、話すスピードはネイティブの日本人より遅い。ノートを広げて話していることをメモしながら、その内容から必死で次の質問を考えてインタビューをした。
その会社では100人ほどにインタビューをしただろうか。自分が取材・執筆をしたインタビュー記事が誌面に載ると、今までに感じたことのない快感が訪れた。
急に編集長が私を取材対象者のところへ連れて行くことがあるとわかったので、勤務日はボイスレコーダーとノートを常備、急なインタビュー依頼にも対応できるようにした。自信のあるふりはだんだんと「ふり」ではなくなり、私はコミュニケーション能力を生かして誰かと話すのが好きなのだと気づいた。
三足のわらじをはいていたころ
日本語教師とライターで「私は日本語が好きなんだな」と自覚したこともあり、東京ビッグサイトや幕張メッセなどで開催される展示会のブースで商品の説明をする、ナレーターの仕事にも興味を持った。しかしナレーターの所属する事務所に足を運ぶと、すぐに現実を突き付けられた。
「ナレーターは経験者が有利なんだよ。クライアントも書類選考で今までどんなナレーター業務に携わったかを重視するし、50歳くらいまでは続けられる仕事だから、ベテランのナレーターはなかなか辞めない。新入りはギャラの安い仕事から挑戦するか、まずはイベントコンパニオンの仕事をして、ナレーターの先輩を見て勉強してみるのが良いと思うよ。その間にナレーター研修を受けてボイスサンプルを準備しておけば、事務所から推薦することもできるし」
研修を受けつつイベントコンパニオンの仕事で事務所のマネージャーと信頼関係を構築すれば、高度なナレーターのスキルを要求されない、イベントコンパニオンとナレーターの仕事を両方担当する「ナレーターコンパニオン」の仕事なら回せるだろうと言われた。ギャラはもちろんナレーターよりは安かったがコンパニオンよりは高かった。
そのような経緯で始めたイベントコンパニオンやナレーターコンパニオンは、接客技術や「自信のあるふり」が存分に生かせる。20代に見えるうちしかできない仕事ではあったが、ある意味、天職だったのかもしれない。金銭の授受を伴わない接客業務という点では企業受付と同様で、オーディションを受けて東京ゲームショウや東京モーターショーに出演できたのは、一生の思い出になった。
過去の仕事は自分の得意不得意を教えてくれた

じょじょに私は気づき始める。
書店員や総務の仕事は、向いていなかっただけなのだ。
ライターやイベントコンパニオンは、私に向いている。
日本語教師は、向いているかどうか今もわからない。「教え方が下手だなあ」と自分で思って、自信のあるふりをしているのが悲しくなる日もあった。しかし、日本語文法を学生に教えるために文法書を読んでいると、ネイティブなら当然わかるけれども外国人にとっては非常に難しい文法があることを知った。
日本語教師として砕けた文法を使うのは危険である。外国人に向けた日本語教授法は資格をとったときに習得していたが、日本人であれば思いもしない質問を学生から受けて、それをわかりやすい日本語で説明する必要もあった。
質問は文法だけにとどまらない。
「先生、この歌、“シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ”です。どうして屋根もいっしょに飛ぶんですか?」
「屋根のほうまで飛んだ」と日本語のネイティブスピーカーは当たり前のように理解するが、日本語がネイティブではない人にとって、「当然察せる日本語」はすべて謎に満ちているのだ。
自分が本当にしたいことって?
また、私は大阪出身なので、ナレーターと日本語教師の仕事では関西方言を完全になくすことを求められた。言い方を東京方言に合わせること、たとえば「~やねん」を「~なんだよ」に変えることは簡単にできる。しかし難しいのはなまりで、今も完璧ではない部分はたくさんある。なお、東京方言はよく「標準語」と呼ばれるが正確には東京方言である。現代日本でベーシックな方言なので、仕事柄、体得しなければならない方言だった。
日本語をあらためて見直すのには苦労したが、ライターとして自分の文章を推敲するときに役立った。とくに当時は在留外国人対象の雑誌で記事を書いていたので、記事では平易な日本語表現が求められる。日本語教師も読むので文法や語彙の誤りは決してあってはならない。媒体の読者対象がだれなのか考える大切さにも気づかされた。
日本語教師の仕事が忙しくなり、私をライターにしてくれた会社からは離れたが、日がたつにつれて「書く仕事がしたい」という気持ちはどんどんとふくらんでいった。日本語教師として入る授業のコマ数を減らそうと決めて、ライターの仕事の幅を広げることにした。
今までの経験が生きたライターという仕事

自分の記事が載った在留外国人向けの雑誌は、執筆実績を示すポートフォリオとして役立った。雑誌が減って多数のWebメディアがローンチする時代に移り変わっていたので、私は雑誌、書籍、Webメディアを問わず、媒体に合った企画を作っては売り込みをした。
電話もメールも、相手を不快にさせないように言葉を選ぶのは、秘書経験があったので容易だった。専業のフリーライターになった今もインタビュー依頼や編集者とのやりとりでそれは生きている。
また、自分から売り込む勇気は、イベントコンパニオンやナレーターのオーディションで培ったものだ。駄目でもともと、一部の媒体から返事が来なくても気にしない。中には他のライターや編集者からの紹介を通して、後に書けるようになった媒体もある。
どのような記事、どのような文章が好まれるかは、媒体ごとに違いがある。ずっと在留外国人向けの雑誌で平易な文章を書いていたため、苦労もしたがターゲットを意識することは自然にできるようになっていた。
ライターと各媒体の相性にも気づき始める。エモーショナルな文章を好む媒体もあれば、淡々と事実を書くことが求められる媒体もある。インタビュー記事もルポ形式かQA形式か等、媒体によって異なる。
どのような媒体なのか知ることも大切だ。その媒体が掲げるテーマだけではなく、担当編集者との信頼関係や自分の経験や相場に見合った報酬額も大切だった。媒体そのものがなくなってしまい連載が打ち切りになるという経験もした。しかし私は他の職業でも挫折を味わい、一度は鬱で会社をドロップアウトしている。「あのときの苦しさと比べれば大丈夫」と思えるようになったのも、さまざまな仕事を経験したからこそ得たもののひとつだろう。
「無駄」から始まるキャリア形成
とはいえ仕事をしていれば落ち込んだり自信をなくしたりすることはある。そんなときは日本語学校の卒業式でベテランの先生から言われた言葉を思い出すようにしている。
「どんなことでも経験は無駄にはならない」
今、自分の夢からかけ離れた仕事をしていても。
勤務先を辞めて「自分のキャリアにとって無駄な年月だった」と思っていても。
私のように勤務先で心を病んで退職して、「自分は何をやってもだめだ」と落ち込んでいても。
何年かたてば、自分のキャリア形成にとって無駄と言い切れるものは何もないと気づくはずだ。
よく誤解されるのだが、私は特別ラッキーだったわけではない。本当は大学卒業後、1つの職業を天職として成し遂げたかった。ライターになったのは運が良かったと言われるとそうかもしれないが、ADHDは一生私から離れないし、不器用、整理整頓ができない、事務作業が苦手といった特性は、自分に合う仕事と合わない仕事が歴然として存在していることを物語っている。
一方ですべての仕事で得たコミュニケーション能力や、秘書時代とフリーランスになってから役立っているスケジュール管理の能力も、私から離れない。
10の職業を経験した私は、「この仕事は自分に合わない」と知ることも大きな一歩だと考えている。そしてその合わない仕事から離れたあと、「合わなかったけど得たものはあった」と実感する機会はかならず訪れるはずだ。
すべての経験は、決して無駄にはならない。
(文:若林理央)
