「ファーストペンギン」という言葉がある。群れで行動するペンギンの中で、魚を求めて海に飛び込む最初の一羽のことだ。シャチやオットセイなどに捕食されるリスクを負い安全を確かめる代わりに、他の仲間に先んじて多くの魚を食べるチャンスを得るファーストペンギン。転じてビジネスにおいて未踏の分野に挑み、新たな変革を起こす存在という意味を持っている。

既存の価値観を打破すること、未知数の可能性に挑むことは、大きな勇気がいる。しかし、新たな歴史は勇敢なペンギンの存在なしには前には進まない。19世紀フランスで一大センセーションを巻き起こし、美術の新たな時代を切り拓いた画家、エドゥアール・マネ(1832〜1883年)は、まさに変革をもたらしたファーストペンギンの一人だ。

固定された権威構造、変革の先に目指すべきものとはなにか。今回はマネのキャリアにフォーカスして紐解いていきたい。

新たな価値観を示し「大炎上」した落選展

エドゥアール・マネ『鉄道』(1873年)、93.3 x 111.5 cm、油彩・キャンバス、ワシントン・ナショナル・ギャラリー 所蔵

身体表現と道徳性の問題は、2023年現在でも世界的に議論されている話題だ。民主主義の下では表現の自由が担保されている一方、表現における倫理・道徳性が問われている。芸術に限った話ではなく、企業が提供するサービスや広告に見られる表現が問題視されることも多い。

1863年のフランス美術界でマネが巻き起こしたセンセーションも、絵画における身体表現のあり方であった。

まず、前段として当時の芸術における身体表現、特に女性のヌードについての扱いについて簡単に説明したい。

当時のフランスの美術界は非常に保守的で、1648年に設立されたフランス王立絵画彫刻アカデミーが権威を握っていた。フェルメールのコラムでも言及したジャンルによる階層が明確に分かれており、そのトップに君臨するのが歴史的出来事や神話を題材とした「歴史画」だ。

ヌード表現には長きにわたり暗黙のルールが存在した。それは、あくまでヌードは歴史画にのみ描かれるべきものであり、その裸体は人間ではなく神話に登場する女神や精霊の姿を表す場合に限られるというものだ。

当時の社会規範からすれば、女性が裸体を公然に晒すことは道徳的にはばかれること。そのため、ヌードはあくまで人智を超えた存在として描かれなければならず、その裸体は「完璧な美」を備え、性的な要素や人間性を排除したものでなければならなかった。

マネの作品『草上の昼食』は、まさしく芸術表現と道徳性のあり方に大きな議論を巻き起こした。画面左側に座る裸体の女性の描かれ方やポーズのとり方は、人間そのものであるどころか、男性二人を前に裸体を晒す様子から、女性が娼婦であることをほのめかしていたからだ。

本作はアカデミーが主催する1863年の官設展示会である、サロンへの入選を視野に出品されたものだった。しかし、テーマや表現のあり方が「不道徳」として落選。初めて公に展示されたのは、同年のサロンに落選した作品を集めた「落選展」の場だった。

当時の『草上の昼食』は、現代風の言い方をすれば「大炎上」。批評家もさることながら、観衆ですら作品を「下品で不道徳」と罵倒した。しかし、その一方で日常のありのままの姿を切り取った露骨ともいえる表現に、誰もがマネを貶しながらも釘付けになったのだ。

批判や罵倒は当たり前のことだっただろう。当時、マネのような表現は誰もやったことがなく、権威による暗黙のルールのもと絵が描かれ続けていたからだ。さらに『草上の昼食』における裸体の女性の目線は真っ直ぐに観るものを見定めるように向けられている。まるで自身を観る者を挑発するような表現だ。当時巻き起こった批判の嵐は、新たな価値観から受けた大きな衝撃に対する反動であったともいえる。

なにより、本作が刺激を与えたのは、他の画家たちだ。ある意味で本作が示したのは、より自由な表現のあり方だった。クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌなど、後に印象派やポスト印象派をけん引した突出した画家たちも、マネの影響を強く受けている。

例えば、上述のようにアカデミズムが定める階層の中で、風景画や人々の生活を描く風俗画は最も低俗なものと見なされていたが、印象派の画家たちが描くのは日常の風景。また、権威的な絵画では人物や背景の写実性を追求するものだが、モネやルノワールら印象派の作品は陰影や光の輝き、ゆらめきに着目している。

冒頭の作品『鉄道』のように、日常を切り取ったスナップのような人物描写が生まれたことも同時代に端を発する。まさしく、マネは芸術の新たな時代を切り拓き、現代に続く芸術表現の多様性の種をまいたファーストペンギンといえるだろう。

既存の文脈を踏まえて、価値観を現代にアップデートする

エドゥアール・マネ『オペラ座の仮面舞踏会』(1873年)、59 x 72.5 cm、油彩・キャンバス、ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵

権威に支配されていたフランスの芸術界に新たな価値観を示したマネであるが、そのキャリアとしては決してパンクな存在ではなく、むしろ自身を芸術のメインストリームに置くことを志向していた。

そもそもマネは法務官僚であった父のもとパリに生まれ、裕福な少年時代を過ごした。ルーブル美術館に足繁く通い、芸術家を志してからはルネサンス期の画家の模写も行っている。実は、先述の『草上の昼食』は表現のあり方こそ現代的ではあるものの、インスピレーションを受けたのはルネサンス期の画家・ティツィアーノの『田園の奏楽』(1509年頃、弟子のジョルジョーネ作とも)だ。

つまり、『草上の昼食』は古典的な絵画のスタイルを引用し、当時の価値観を付与した作品とも見て取れる。すべてにおいて全く新しいオリジナルなものではなく、絵画における深い造詣をベースとしながらも、あえて露骨な人間性を表出させたのだ。このような引用と革新性の両立という面でも、マネが近現代美術への橋渡しをしたことがわかるだろう。

実は、マネが起こしたセンセーションには続きがある。マネは1865年のサロンにも出品し、入選を勝ち取っているのだが、入選したのは『草上の昼食』以上に物議を醸した作品『オランピア』だ。

同作もティツィアーノやスペイン人画家のゴヤなどから構図やポーズを引用していて、ルネサンス期から続く典型的なヴィーナス像となっている。しかし、描かれているのは当時のパリで決してポジティブなイメージだけでは語れない快楽主義的な側面の表象。娼婦をモデルに描いているのだ。

端的にいえば、マネはこの絵で世間を煽りまくっているのである。既存の文脈を援用しながら、自身の提示する新たな表現、価値観のあり方を示しているのだ。当然、保守的な批評家や鑑賞者から大きな反発を招くことが予想できたが、その分イノベーターからより大きな支持を得ることに繋がっていく。

このように、マネの作品は革新性がありながらも、その背景には過去の偉大な芸術家たちが存在し、さらにいえば権威によって形成された技法や構図から多くのインスピレーションを獲得していたことがわかる。

「権威主義」「保守的」という表現は、特に現代のビジネスの場では消極的に扱われることが多い。一方で、これらは組織的な構造なしには成り立たないものであり、組織の中で培われたノウハウや技法の保護や継承、体系化という面においては、ある意味で理にかなっている。

ただし、絵画の階層が権威に結びついたアカデミズムなどによって形成されたように、権威主義/保守的な組織構造の場合、価値観が固定されやすく、また柔軟性も生まれづらい傾向にある。現代で両者が問題視されるのも、見通しが悪く先行きを予想できない状況では、変化への柔軟性や俊敏性が求められるためだ。

マネが目指したのは、現代の企業がDX(デジタル・トランスフォーメーション)を行うのと似たマインドだったのかもしれない。

DXはただ業務を効率化することが目的ではなく、企業の収益構造や新規事業の創出、経営戦略そのものを変革させるために取り組むものだ。

しかし、その本質にあるのは既存事業の文脈を踏まえつつ、岩盤のように硬くなった固定観念を打破し、自社が持つ価値観を現代にアップデートする点ではないだろうか。その根底には、VUCAと呼ばれる時代に面する危機感や、今後深刻さが増す社会課題に、時代の担い手の危機感がある。

19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパは、まさに激動の時代を迎える。ある意味でマネが示したのは迫りくる新時代の「予感」であり、新たに求められる芸術のあり方へ導いたともいえる。大きな批判を浴びながらも、マネは芸術が渡るべき橋を用意したのだ。

別の視点から捉えた世界の見え方を示すことも革新である

エドゥアール・マネ『老音楽師』(1862年)187.4 x 248.2 cm、油彩・キャンバス、ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵

現代、特に日本ではイノベーションの創出は喫緊の課題であり、その担い手として、ITエンジニアの重要性は非常に高まっている。実際、最近ではエンジニアが経営に参画、または自ら起業する事例や、イノベーションの担い手として活躍している事例が増えてきた。

まさに自らファーストペンギンとして新たな境地を切り開いていく潮流が生まれていることは、間違いなく未来の日本、ひいては世界にとって有益なものになるだろう。

芸術家とエンジニアは一見相反するように見えるが、既存の技術や文脈を参照しつつ「新たな世界の見え方を示す」というクリエイティヴィティは共通している。まさにマネが近現代芸術の扉を開いたように、既存のものを現代の価値観にアップデートすることも、十二分にイノベーションであると筆者は考える。

一つ身近な例を出したい。筆者が最近観ているアニメ『葬送のフリーレン』(日本テレビ系)。最初の数話でボロボロ泣いて以来、率直にいってどハマりしているのだが、同作はエルフと人間、ドワーフが登場するファンタジーであり、世界観においては伝統的ともいえる設定になっている。

しかし、筆者が非常に興味をひかれている点は、同作の視点が主人公の1000年以上生きているエルフ、フリーレンを中心として描写されていることだ。

例えば映画『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズおよび原作の『指輪物語』は、人間と比較的寿命が近しいホビットの視点から描写されている。その中でのエルフの扱いは、やはり人智を超えた存在。友情を育みながらも種族的な隔たりを感じさせるなど、ある意味で神や精霊に近い者、人間の客体としてのエルフという立ち位置で描かれている。

対する『葬送のフリーレン』の面白さは、人間から見たらある意味で永続的な存在であるエルフの視点から描かれていることにある。人間よりもはるかに長い寿命を持つエルフが持つ喪失感や、長く生きるために背負う誰かの死を見送る宿命にフォーカスするのは、斬新な視点に感じた。

決して誰かと話し合ったことはないが、同作でのフリーレンの立場に共感する大人は多いのではないだろうか。つまり、人は自分が死ぬことは一度だけだが、人生において多くの人の死を送る立場にある。

歳を重ねるごとに結婚式の数は落ち着いていくが、葬式の数は減るかというとおそらくそれは考えづらい。そして、見送る数が増えるごとに、不在の喪失感は募っていく。フリーレンが訪ね歩く旅路もある意味で弔いの一環であり、不在によって生まれた穴のありかを求めていく行為にも思える。

本作が提供しているのは、エルフとしての目線から見た人間のあり方、さらにいえば「遺された者」が時の流れとともに生まれる隔たりの空虚さ、そして、それを埋め合わせるものの所在を求めるヒトの心理なのではないか。

伝統的でありながらも「新たな世界の見え方」を投げかけることで、これまでとは全く異なる価値観へアップデートする。これこそ、メインストリームの中に身を置きながら大きなセンセーショナルを起こしたマネのあり方であり、それは現代にも通じることだ。

このように、私たちが感じる「新しさ」の所在は、まったくのゼロからなにかを創造することだけではないのだ。むしろ既に存在している物事を別の視点から観察したときに、まったく異なる解釈が生まれる場合もある。それを示し、世に問うのもまた「新しさ」の一部なのだ。

(文:川島大雅

― presented by paiza

【参考文献】

『増補新装 カラー版西洋美術史』監修 高階修爾 (2011年)美術出版社
『1874年ーパリ [第一回印象派展]とその時代』編集 国立西洋美術館(1994年)読売新聞社
『THE WORLD FINE ARTS 第九巻 コロー/クールベ/ミレー』(1976年)研秀出版
Google Arts & Culture エドゥアール・マネ

【画像引用元】

ワシントン・ナショナル・ギャラリー

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