日本で最も知られたアーティストの一人。「真珠の耳飾りの少女」(1665年頃)に代表される、優美な色彩と精緻な構図が世界的に評価されている芸術家。ヨハネス・フェルメール(1632〜1675年)について余計な説明は必要ないだろう。日本で開催される企画展はもはや鉄板ともいえるもので、美術館の前に並ぶ長蛇の列を見れば、どれほど愛される存在であるのかはいうまでもない。

しかし、実はフェルメールの存在は長い美術史において忘却の中にいた。19世紀半ばに再評価される前までは、ごく一部のコレクターにのみ知られていた存在であり、同時代に活躍した巨匠ピーテル・デ・ホーホ(1629~1684年)などの署名を上書きされ、偽造品に仕立てあげられる始末だった。

なぜ、フェルメールが200年近くも忘れ去られた存在であったのか。そこには17世紀オランダが味わった「栄光と転落」に深い関わりがある。ここではフェルメールの歩んだ人生とオランダの歴史について焦点を当て、VUCA時代に生きるわたしたちのキャリアのあり方について考えていきたい。

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17世紀オランダに「超絶経済大国」が生まれた背景

「手紙を読む女(青衣の女)」(1663年頃、油彩・キャンパス、46.5×39cm)アムステルダム国立美術館蔵(オランダ、アムステルダム)

フェルメールという画家については、作品が脚光を浴びる一方で、その生涯について言及されることはあまり多くない。それは一重に日本におけるフェルメールの人気が「アイドル的」であり、作品からは考えられない結末を迎えているからではないだろうか。

結論からいえば、フェルメールの晩年は破産寸前であり、金策に追われたまま43年の生涯を閉じた。死因の詳細は不明ではあるものの、多額の負債が少なからず心身への影響を与えていたことは間違いないだろう。

では、なぜフェルメールがこれほどまでに多額の負債を抱えたまま世を去ることになったのだろうか。理由を探るためには、まずはフェルメールの過ごした栄光の日々、オランダ黄金時代の到来とその背景について言及しなければならない。

17世紀は、オランダが世界に君臨していた時代といえる。長きにわたる独立戦争を勝ち抜き、プロテスタントを国教とするネーデルラント連邦共和国(以下、便宜上オランダとする)が生まれ、海洋交易でほぼ独占的な地位を築きあげた。最先端のテクノロジーと富が集積する地に発展していた。

オランダがこのような超大国であった理由の一つは、先述の「プロテスタント国家」として独立した点にある。当時、ヨーロッパでは伝統的かつ権威主義的なカトリックと、革新的で自由主義的なプロテスタントの間で宗教対立が起こっていた。いわゆる宗教改革運動だ。

宗教改革の原因となったものであり、現在ビジネスの場でしばしば使われる「免罪符」(贖宥状)は、カトリックがサン・ピエトロ大聖堂の再建を「名目」として発行したものだ。なお、当時の教皇であり、免罪符の発行を許可したレオ10世はイタリアの豪商メディチ家の出身であり、贅沢と芸術をこよなく愛した人物である。宗教改革の際(免罪符はカトリックの資金調達で度々発行された)の免罪符は教皇の号令のもと、ドイツのマインツ大司教区が発行、修道会が販売を担った。

現代のビジネスで言い換えれば、絶対的な権力を持つ社長が持ってきた、明らかに自社のブランド価値を下げるような商材をトップダウンでいきなり販売させられるようなものだ。現場から反発が起こるのも無理はないだろう。

カトリックは権威とのつながりを重視してきた。その教義は各地の支配者たちにとって都合がよく、信仰の名の下に規制と搾取を容易たらしめるメリットもあったのだ。たとえば当時のカトリックは現在と比べてより厳格で、ピラミッド型の組織構造があり、働き方や生き方までが教義によって定められていた。ビジネス的にいえば超トップダウン&マイクロマネジメントであり、そこに反することは文字通り「地獄行き」を指していた(コミュニティや時代によっては生きながら地獄を味わされる羽目になった)。なによりも労働とは神に与えられた「原罪への罰」であるため、富を蓄えることも楽をすることも悪とされ、善行と寄進が善とされていたのだ。

その教義に異議を唱えたのがプロテスタントであり、同宗派のあり方はビジネス的にいえばティール組織的だ。プロテスタントは「万人司祭」という考え方を持つ。つまりはトップがおらず、自律的な信仰を重視する。そのため、教義の厳格な遵守より個人が尊重される傾向にあり、カトリックを含めた個人の信仰に比較的寛容であった。そのため、単に個人の信仰というだけではなく、プロテスタントという大きな分類にも、さまざまな宗派(カルヴァン派、ルター派など)が生まれた。

この個人の信仰心の尊重とはつまり「自身で聖書を読み、理解する」ことが重要となる。そのため、プロテスタントは積極的に聖書を現地の言語に翻訳し、印刷した。そのため、宗教改革は識字率の向上をもたらした。上の作品「手紙を読む女(青衣の女)」(1663年頃)がそれを顕著に示すように、当時のオランダでは男女問わず文字を読解し、手紙を交わす文化が生まれていたのだ。

また、プロテスタントでは労働を推奨し、その結果として生まれた利益は多くの人々への貢献、つまりは「隣人愛の実践」の証とされた。利益を得ること、そして利益の最大化に努めることが肯定される点は、商人や職人にとって親和性の高いものだった。20世紀前半にマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904年)で論じたように、近代資本主義はプロテスタントに結びついて発達し、その根本的な思想は現代にも受け継がれている。

そのような中で、ヨーロッパで経済と交易の中心となっていたオランダがカトリック国であるスペインからの独立を勝ち取った。80年にわたる独立戦争の間に、袂を分けてカトリックの地域となった南ネーデルラントをはじめ、フランスやドイツ、スイスなどのプロテスタントの商人、職人、思想家などがオランダに集積した。たとえば現代に通じる合理主義思想の礎を築いたルネ・デカルトも独立戦争期のオランダに滞在し、当地で『方法序説』(1637年)を著している。その結果、オランダでは莫大な富、イノベーションを集積するエコシステムが構築されはじめていた。

また、独立戦争の勝利によって、オランダは地政学的なメリットも享受した。つまり、海洋貿易の利権を獲得することにつながったのだ。風力による安価なエネルギー資源は高い造船生産能力を与え、一時はオランダ籍船舶のシェアは他のヨーロッパ諸国を圧倒した。かの有名なオランダ東インド会社※1、さらには国際金融機関であるアムステルダム銀行やアムステルダム証券の設立により、貿易上のプレゼンスだけでなく、ヨーロッパの金融をもリードする存在になった。

フェルメールが生きた17世紀のオランダは「黄金時代」と呼ばれる。まさに世界の富をほしいままにし、絶対的な国家的地位に君臨していたのだ。人々は貴族や司祭といった階級差ではなく、所持している富によって評価された。貧富の格差は大きかったものの、その地位は比較的流動性が高かった。少なくとも一代で莫大な富を築き、貴族然とした暮らしができる機会は誰もが持ち合わせていたのだ。そして、フェルメールという画家もまた栄華の絶頂にあるオランダ経済と運命をともにしていたのだった。

※1 『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズに出てくる東インド会社はイギリスで設立された会社であり、オランダ東インド会社とは別。日本で日蘭貿易をおこなっていたのはオランダ東インド会社。

「フェルメール・ブルー」とオランダの経済発展

ヨハネス・フェルメール「真珠の耳飾りの少女」(1665年頃、油彩・キャンバス、44.5×39 cm)マウリッツハイス美術館蔵(オランダ、デン・ハーグ)

前段が長くなったが、ここでフェルメールの人物像にフォーカスしていきたい。フェルメールが生まれたのは1632年。オランダがウェストファリア条約により他国から国家として承認されたのが1648年なので、少年期に国家としてのオランダが成立し、空前の経済成長へと歩み出したことになる。フェルメールはアムステルダムの南西に位置するデルフトという街に生まれ育ち、人生の多くの時間をここで過ごしたというのが略歴だ。

これまでオランダのプロテスタント国家としての成り立ちについて言及していたが、実はフェルメールはカトリック教徒だ。しかも、プロテスタントから改宗している。上述の通り、プロテスタントは他者の信仰に寛容な傾向にあったが、カトリックへ改宗する者は珍しかった。そのような「逆張り」ともいえる改宗を行った理由は、結婚にあった。ここからは推測の域を出ないが、まず事実を列挙する。

  1. フェルメールの妻カタリーナの実家は非常に裕福なカトリックの一家であった。
  2. フェルメールの父は画商であり、パブと宿を兼ねた店を経営していたが、借金があった。
  3. そのため、プロテスタントであり親族に借金をする者がいたことから、当初カタリーナの実家から結婚を反対されていた

家業を営む父はすでに晩節にあった。自身の画業の成功と家業の両立を考えると、いわゆる「実家が太い」カタリーナとの結婚は、フェルメールにとって経済的にもメリットは大きい。フェルメールがカタリーナと結婚するためには、カトリックに改宗する必要があったのだろう。

そう考えるとこの結婚には「政略的」な要因もあっただろう。しかし、それは一側面にすぎないのかもしれない。フェルメールとカタリーナの間には生涯で15人の子どもが生まれている。当時の医学的な事情も鑑みる必要はあるし、出生数が必ずしも夫婦の円満さの尺度にはならない。だが、少なくともカタリーナはフェルメール亡き後、相続上の問題で経済的に困窮していたにもかかわらず、作品を極力手放そうとしなかったという。

さて、フェルメールが画家として独立したのは、カタリーナと結婚してしばらく経った時期だった。フェルメールの若手時代のキャリアは明らかになっていないが、画家や画商などを営む職人組合(ギルド)の聖ルカ組合(※2)に「親方画家」(※3)として登録された記録が残っている。その翌年にフェルメールの父は逝去。こうしてフェルメールは画業と店舗経営の二足の草鞋を履くことになった。

当時はオランダ黄金時代であり、空前の好景気に湧いていた。徐々に大家族を形成していったフェルメールにとって、台所事情は常に注視せねばならないものではあっただろうが、画業および家業はある程度軌道に乗っていたようで、さらに義実家からの援助もあった。当時としても名のしれた画家として評価され、パトロンにも恵まれていた。

ここで冒頭の作品、『真珠の耳飾りの少女』に着目したい。この作品のまたの名を『青いターバンの少女』という。漆黒の背景と静謐な青色のターバンが、少女の白い肌や浮かび上がる真珠、潤んだ瞳を際立たせている。スナップのような振り返る姿を捉えたポーズ、鑑賞する者を探るような目線のあり方。シンプルな情景であるのに、その裏にはなにか物語が潜んでいるような気がする。そのような美しくも意味ありげな情景が、世界中の美術好きを虜にしている作品だ。

気品に溢れたこの青色は他作品にも見られ「フェルメール・ブルー」と呼ばれている。この青色はウルトラマリン(※4)という顔料を用いていて、当時は宝石であるラピスラズリを主原料としていた。当然、宝石を使うことからとんでもなく高価であり、合成顔料が発明されるまでは金よりも高価な顔料だった。そんなウルトラマリンを惜しげもなく使用しているのである。

一説にはフェルメールはウルトラマリンを購入するために多額の借金をしていたといわれているが、逆説的には「貸してもらえる」ことがある程度の社会的信用の証左ともいえる。好景気とはいえ回収の見込みのないビジネス、人物が多額の融資や投資を受けることはできないためだ。

なにはともあれ、フェルメールがいかに恵まれた環境の中で絵を描いていたのかがよくわかるエピソードだ。

また、フェルメールは画家だけでなく画商としても活動しており、そこからも収入を得ていた。当時、画家が副業・複業をおこなうことは珍しくなく、販売を兼ねることによって在庫を持つかわりに、自身の労働力に依存しないビジネスモデルを構築したのだろう。さらには父から受け継いだ店舗経営によって、芸術市場以外での収入源を確保していた。

フェルメールは寡作な画家として知られている。現存する作品数は三十数点(諸説あり)だが、一方でフェルメールは先述の聖ルカ組合の理事にも選出され、業界内でも影響力を持っていたことがうかがえる。その要因には本業以外から得られる収入があったからこそ、完成を急がず自身の芸術性を探究できたという側面もあったのではないだろうか。

このように、ビジネス的な側面から見ても当時のフェルメールは手広く成功を収めており、業界団体でも地位を獲得した成功者といえる立場にあったと推測される。

※2 ギルドではそれぞれの職業集団ごとに守護聖人(特定の職業や地域などに縁を持つ聖人のこと)にあやかった名称をつけることが通例であった。聖ルカは画才に富む医師であったとされる聖人で、画家と医師の守護聖人とされている。そのため医師や薬剤師ギルドでも聖ルカの名は見られ、現在でも聖路加病院など、キリスト教系の病院などは守護聖人にあやかった名称を使うことが多い。

※3 数年の修行を経て、一人前の画家として独立を許された画家。フェルメールが誰に師事したのかは記録に残っていない。

※4 当時、ラピスラズリは産出国であるアフガニスタンから海運経由でヨーロッパに輸入されたことからウルトラマリン(海を渡ってきた青)という名がついた。

社会構造の変化が絵画にもたらした影響

レンブラント・ファン・レイン「夜警」(1642年、油彩・キャンバス、379.5×453.5cm)アムステルダム国立美術館蔵(オランダ、アムステルダム)

ここで、当時のオランダにおける芸術とアーティストのあり方の変化について紹介したい。

まず、近世までのヨーロッパでは、芸術とは権力者のものであり、その権力を示すための手段という側面が強かった。たとえば教会では神の力を示すために壮大な宗教画が、王宮では王侯貴族の巨大な肖像画が描かれた。また、当時の識字率の低さから考えれば、神の偉業や王の偉大さは荘厳な絵画や彫刻で表現するほうが理にかなっていたのだ。芸術は時の権力と密接に結びつくことで発展を遂げてきたといえる。

ただし、14世紀から始まる荒廃したヨーロッパ文化の復興(いわゆるルネサンス)の際には、教会と王政(イタリアではその権力を握ったメディチ家などの大商人)が庇護者となっていたことも事実だ。それは芸術のみならず、科学技術や哲学、政治学、法学といった社会の発展にも貢献している。

一方で、権威主義の庇護のもとで振興した絵画芸術は、ジャンルにおいても明確な階層が形成されていた。トップに君臨するのは古代の歴史や聖書の物語などを描いた「歴史画」であり、次点に支配階級などを描く「肖像画」、その下には「風俗画」(日常的な風景や人の営みをテーマとしたもの)、「風景画」、「静物画」と続く。やはり支配階級の権威を示すものが神聖(最上級)とされ、下界を描くものは俗物的な扱いをされていたのだ。

社会的な支配層、言い換えるならアーティストにとっての主要顧客が変われば、当然ながらニーズにも変化が生じるものだ。そこには需要と供給という明確な市場原理が存在し、フェルメールが過ごした17世紀オランダの黄金期では、作品の価値観や絵画を飾るシーンも一変していた。

先述の通り、カトリックの総本山・ヴァチカンのあるイタリアでは、ルネサンス全盛期にメディチ家をはじめとする大商人が隆盛し、オランダと同じくギルドを形成していたが、依然として教会と王侯貴族の権力は絶対的で、その価値観を覆すには至らなかった(が、メディチ家は権力側と一族を融合させることで栄華を誇った)。一方、プロテスタントによる宗教改革と独立を達成したオランダでは商人が大きな力を持ち、芸術の担い手ともなっていた。

また、プロテスタントは偶像崇拝を禁じていたことも、オランダ国内における歴史画のニーズがない要因だった。そのため、絵画は権威を示すという「公共的」なものよりも、邸宅を飾る「私的」なニーズが高まっていったのだ。絵画は裕福な家庭の日常に溶け込む必要があり、そのためには壮大な史実を描く歴史画や巨大な肖像画ではなく、風俗画や風景画、静物画、そしてサイズも小さめなものが人気となった。余談だが、初めてフェルメールの作品を鑑賞した人が驚く点として有名なのが「サイズが小さい作品が多い」ことだ。

一方で、レンブラント・ファン・レイン(1606〜1669年)の『夜警』(1642年)のような巨大の絵画も描かれている。この作品のテーマは非常に「当時のオランダ的」といえるもので、同作は、アムステルダムの火縄銃手組合が結成した自警団による発注だった。自身の権力を誇るのではなく、組合の公益性や団結心を描いた作品となっており、(費用としては雲泥の差があるだろうが)今でいうと割り勘で記念撮影をした感覚だろう。

レンブラントは画家として著名であったが、この絵画に描かれた人物の大きさに差をもうけてしまったことから、作品の注文が減ってしまったという逸話が残る。レンブラントはこの作品で明らかに歴史画の構図を参考にしていたためだ。よりダイナミックで、ドラマチックな情景を描き出していて、人物像はどちらかといえば構図の1要素として扱われている。しかし、この絵画の発注で求められていたのは仲間同士を格差なく扱うことであった。ただし、ここで注意しなければならないのが、レンブラントはこれまでのキャリアではしっかりと自身の作風と発注者の要望のバランスをとった作品をつくりあげていたし、それによって高い評価を得た画家でもあった(下図参照)。

レンブラント・ファン・レイン「布地商組合の見本調査官たち」※「アムステルダムの布地商組合の理事たち」とも(1662年、油彩・キャンバス、191.5× 279cm)アムステルダム国立美術館蔵(オランダ、アムステルダム)

芸術家にとって、美の探求と世間的なトレンドとの葛藤もあったはずだ。このような大きな画面で絵を描く機会に、レンブラントは自らのクリエイティビティを最大限発揮したいと考えたのだろう。レンブラントはその後、身内の不幸や散財癖などから破綻し、現在でいう「業界から干された」存在になったが、それでも世間的な名声は変わらなかった。

レンブラントは芸術に対する高い探究心から幅広い作品を残し、また全盛期には多くの弟子を抱えて技法の伝授にも努めてきたが、探究心が強いあまりにビジネスや業界団体としては扱いづらい人物と見なされてしまったのだろう。ただし、その評価は時代の変化に潰えることなく伝承され、フェルメールのように忘却されることはなかった。翻ってフェルメールはニーズに合わせつつも私的な探究心を両立した画家と見ることもできる。ある程度はビジネス的に割り切った面もあったことからも聖ルカ組合の理事に出世するまでにいたった。

フェルメールが生きた時代のオランダにおいて、芸術の担い手に変化は起きたものの、変化のない構造もあった。アーティストはあくまでも制作者であり、顧客との関係性は受発注にある点だ。フェルメールは画商という媒介業者であったが、そこにも顧客と在庫があり、景気に左右されるものだった。そして、フェルメールの人生が中年に差し掛かった頃、栄華を極めたオランダにも黄昏が訪れようとしていた。

フェルメールの晩節にみるVUCA時代のキャリア形成

ヨハネス・フェルメール「デルフトの眺望」(1660〜1661年頃、油彩・キャンバス、96.5×115.7cm)マウリッツハイス美術館蔵(オランダ、デン・ハーグ)

これまではオランダ黄金時代の華々しい点に着目していたが、そこには当然歪みも生まれていた。まず、オランダは海洋貿易により急速な経済成長を遂げていたが、国内では徐々に格差社会が形成されており、健在な市場経済が回っているとは言い難かった。また、海外交易では大きな利益を出していたものの、国内産業は未発達であり、内需については頭打ちとなりつつあった。

そのような中で起こったのが、かつて独立戦争時にオランダを支援したイギリスとの対立だ。理由はやはり海外交易の権益であり、両者は三度にわたる戦争(英蘭戦争、1652〜1674年)へと突入した。この戦争でオランダ側は粘り強く戦い、敗れはしなかったものの、海洋貿易のアドバンテージを喪失。さらに第三次英蘭戦争と同時期にはフランスによるオランダ侵略戦争(1672〜1678年)が勃発。国内経済を疲弊させるには十分な打撃を与えた。

このようなオランダの衰退と景気の悪化は、商人たちにも悪い影響を与えた。商売が成り立たなくなった場合、真っ先に削られるのは贅沢品や嗜好品だ。そのようにして最終的に大きな被害を被るのが芸術家たちなのだ。フェルメールも例外ではなく、その栄華は景気とともに転がり落ちていった。

翻って現代に目を移すと、「VUCA」という言葉が普及して久しい。これは「Volatility(変動性)」「Uncertainty(不確実性)」「Complexity(複雑性)」「Ambiguity(曖昧性)」の頭文字があてた略称であり、もともとはテロリズムの出現により、統合的な軍事組織としての戦争のあり方から予測不可能な自体を指すための軍事用語だ。

ビジネスにあっても、気候変動、コロナ禍、社会情勢によって経営環境は急激に変化する。その不確実性から、VUCAはビジネス領域でも使用されるようになった。特に戦乱や疫病は予測不可能なものであることからも、フェルメールが歩んだキャリアは非常にVUCA的な情勢によって下降線をたどってしまったといえる。フェルメールは専業で画家をしていただけでなく、いくつかのビジネスも兼業しある程度のリスクマネジメントもおこなっているが、その没落は対外的な要因が多く、現在ほど多様な市場のない当時のビジネス環境からすれば、気の毒にさえ思える。

ただ、フェルメールが営んでいたビジネスすべてに共通するのが、すべてがクライアントありきのビジネスであり、景気からの影響が非常に大きな商売であるという点だ。画家や画商はもとより、父より相続した宿屋兼パブも、景気が悪ければ客足が遠のくものだ。また、見方を変えるといずれのビジネスも発注と受注というシンプルな構造の上に成立している点にも着目したい。つまり、手広くビジネスを展開しているようで、実のところ構造が似通ったものをおこなっていたことが連鎖的な悪影響をもたらしたのではないだろうか。

フェルメールは第三次英蘭戦争後の1684年に亡くなり、以降オランダは国際的な影響力を喪失、フランス革命期にはナポレオン率いるフランスに占領された。このような混乱の歴史の中でフェルメールの名も徐々に忘れられていき、冒頭のような扱いにまでなってしまった。

複雑性の増した現代において、将来を予測することはより難しくなっている。フェルメールと同様に、数年前に世をときめかせていた企業が経営破綻を報道されている例も枚挙にいとまがない。そのような中で、ビジネスパーソンはどのようなキャリアを歩べきかは非常に難しく、正解のない問題だ。しかし、1つだけいえるとすれば、近年企業経営で重視される「レジリエンス」という考え方は、ビジネスパーソンとしても持つべきであろう。レジリエンスとは「回復力」や「弾性(しなやかなさま)」と訳されるもので、困難な状況をしなやかに乗り越えて回復する能力を指す。

AI時代が到来した現代では、やがてどのような業界でも構造を一新するような変革が訪れるだろう。自身のスキルが陳腐化するということも十分にありえる話だ。そのときに、どのような面で活路を見出し、行動していくのかが大きな差を生み出すだろう。たちえばリスキリングやパラレルワークのような形で自身のプロジェクトを進めてみることは、将来起こりえるリスクへのレジリエンスを高めるために有効な手段ではないだろうか。また、そのようなときにあえて普段の仕事ではやっていないことに挑戦するスピンオフ的なチャレンジをしてみることも一手だ。

フェルメールは不遇な晩節を送り、美術史的にも一時的に忘却された画家ではあったものの、いうまでもなく作品の美しさが一際抜きん出ているからこそ、再度見出され、今も鑑賞者を魅了し続けている。彼は紛れもなく唯一無二のアーティストであり、大きな敬意を払うべきだ。日本でも特に人気の高いフェルメール。企画展も頻繁に開催されているので、ぜひ実際の絵をご覧いただき、その魅力とキャリアに想いを馳せていただきたい。

(文:川島大雅

― presented by paiza

参考文献・Webサイト
池上英作著『ちくまプリマー新書174 西洋美術史入門』筑摩書房(2011年)
高階秀爾監修『カラー版 西洋美術史 増補新装』美術出版社(2002年)
Google Art & Culture 『フェルメールとの出会い フェルメールの全作品:7か国に広がる18美術館からの36の絵画』

画像引用元
マウリッツハウス美術館
アムステルダム国立美術館

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