筆者は現在、ビジネス系を中心としてインタビュー記事を書くライターだが、大学時代に学んだのは美術史だった。博物館学芸員という資格を取得しつつも、大学を卒業して8年にもなると少しずつ展覧会に行く足も重たくなる。そんななか、前職を退職し、有休消化中だった昨年末に足を運んだのが『ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術展』(当時は東京開催、現在は大阪で開催中)だった。パブロ・ピカソ(1881〜1973)の作品を中心に、同時代に活躍したアーティストの作品が展示される、かなり充実した内容だった。
そこで、今回はタイトルのような切り口で、ひとつ美術についてコラムを書いてみたいと思う。美術鑑賞の楽しみ方はさまざまであって良いと思う。
決して高尚な知的好奇心を持つ必要はなく、むしろ世間一般の私たちにとって、ある偉大なアーティストの泥臭い取り組みやビジネスの側面を知った方が、親近感が湧くと思うのだ。その点でいえば、ピカソは適任の存在だろう。
本コラムでは、「ビジネスパーソン」というアプローチから、ピカソを紹介したい。なお、本コラムでは非常に穿った見方をしているため、愛好家の方はどうかご容赦願いたい。
「新し過ぎた」と「イノベーション」を分け隔てるもの
ピカソは、存命中に最も成功したアーティストの1人だ。実際、ピカソの遺産は7500億円と試算され、遺族が莫大な相続税が払えず泣く泣く作品を手放し、その結果パリに国立ピカソ美術館が設立されたという逸話もある(※)。つまり、ピカソの作品は存命中にも高値で取引され、彼はとんでもなく金持ちだったのだ。
極論、現存する美術作品には1つだけ共通点がある。それらすべては創作され、世に出された時点で「価値」が付与されるという点だ。当然需要と供給の関係にあり、それは市場の成熟度合いやニーズに合わなければ、芸術家が存命中の時点では「ゼロ」と査定される可能性もある。ピカソと頻繁に比較されるのが、フィンセント・ファン・ゴッホだ。現在では数十億円は下らない価値を持つゴッホの作品も、存命中には数点しか売れなかったという事実がある。
現代のビジネスでも、優れたテクノロジーを実装したプロダクトを開発したスタートアップや新規事業であっても、失敗するケースを見てきた。その理由の1つには「新し過ぎた」という事例だ。プロダクトの革新性に市場がついていかず、マネタイズやスケール化に失敗し、撤退を余儀なくされる。新規事業の場合には社内での理解が追いつかず、結局プロジェクトすら始まる前に頓挫し、商機を逸する例も多いだろう。印象派が全盛の中で自らのスタイルを追い求め、ポスト印象派の風潮をつくったゴッホは後世で大きく評価されることになったが、当時の世情としては「新し過ぎた」のだ。
※この相続問題の裏側には、ピカソの遺産が現金や不動産だけでなく、自身で保持していた膨大な作品であること、またピカソの生前の結婚歴(および恋愛遍歴)から多くの相続人がいたことから、遺族だけでなく国をも巻き込んで大いに揉めた。この逸話はある意味で「遺産の後始末は生前に片付けておくべし」という相続問題の好例ともいえるかもしれない
ゲームチェンジャーとしてのピカソ
ゴッホが生み出した作品が「新し過ぎた」という言葉の裏には、いくつかの要因を見出すことができるのではないだろうか。「新し過ぎた」と「イノベーション」を分け隔てるものはなにか。前置きが長くなったが、生前ゴッホとは真逆の評価を得たピカソのキャリアには、そのヒントがあると筆者は考えている。
ピカソが生み出した大きな芸術的ムーブメントとして「キュビズム」がある。これはピカソが1907年の作品『アヴィニョンの女たち』を起点とし、それに共鳴した画家ジョルジュ・ブラックとともに創設、確立されたものだ。既存の芸術で基本とされてきた遠近法から脱却し、対象を複数の視点から捉えて表現上の再構成を行なったこと、さらには対象物を幾何学的に捉えて抽象化した点はまさに革新的で、芸術表現のあり方そのものを変えるものだった。着目すべき点は、キュビズムはピカソの作品を端緒とし、ブラックとの協創により確立、追随するアーティストにより大きなムーブメントを起こしたこと。そして、キュビズムが後の芸術に広範な影響を与え続けていることだ。
ここに「新し過ぎた」と「イノベーション」の違いがあるのではないか。つまり「新し過ぎた」ものはポテンシャルがあるものの、その時点でのインパクトが限定的であるため、評価が後発となる場合が多い。一方で「イノベーション」は世に出た時点で、賛否両論を含めセンセーショナルに評価され、それ自体が新しい未来を示している。
『アヴィニョンの女たち』が示したものは、アーティストにとっての新たな視点であり、価値観だった。まさにピカソはイノベーターであり、ゲームチェンジャーだったのだ。以降ピカソは、その現代芸術をけん引すると同時に、その先行者利益を享受することになる。
インプットとアウトプットの俊敏性
前述のキュビズムは革新的ではあるものの、それがゼロイチのものであるかと言えば、答えは否である。キュビズムの構造的なあり方にはポスト印象派の画家ポール・セザンヌに大きな印象を受けており、またアフリカ彫刻や古代イベリア彫刻にインスピレーションを得て、それらを吸収してキュビズムへと昇華させたのだ。
「凡人は模倣し、天才は盗む」。これはピカソの格言とされているが、実際には確証がない。それでも広く知れ渡っているのは、ピカソの創作姿勢が如実に現れているからだろう。「盗む」という表現を補足すると、それは決して剽窃や盗作を行なったという意味ではない。これは優れた表現を自身の手法として取り入れ、それを自身のインスピレーションの中で咀嚼し、作品としてアウトプットする能力を指す。ピカソが何よりも優れているのは、その「盗む」とアウトプットの試行錯誤を尋常ではない量をこなしていた点だ。
ピカソという人物は、その生涯で実に多様な作品を手がけている。それぞれの作品傾向から「○○の時代」と名付けられていることからも、そのことが頷ける。言い換えるなら、ピカソの作品歴は絶え間ない試行錯誤の連続であり、インプットとアウトプットを高速で繰り返すことによってアートのトレンドをリードしてきた。
ここで、ビジネス的な観点から見ると、ピカソはアジャイル型のアーティストであり、だからこそ常に作品をアップデートし続けることができた。そして、時には自身の技法や様式そのものを捨てて、全く新しい作品を作り上げる、柔軟かつ大胆なピボットを可能にしているのだろう。
また、ピカソの作品の多様性は、後世で作品の価格維持にも寄与しているといえる。ピカソが生涯で制作した作品数は約15万点におよび、最も多作なアーティストとしてギネス世界記録に認定されているのだ。ともすれば作品価格は暴落しそうに思えるが、ピカソの場合は時代によって表現が全く異なる。つまり、それぞれの時代で歴史的な価値も高くなるのだ。
ピカソのブランディング戦略
ピカソのキャリアを辿ってみると、その姿は意外にも泥臭く、貪欲であったといえる。同時に、ピカソは自身の作品の価値を最大化させる取り組みを行なっていた。つまりは自身と作品のブランディングだ。
前提として、ピカソの若手時代は極貧状態だった。この時期には2つの逸話が残っている。1つは「暖をとるために自身の作品を燃やしていた」ということ、もう1つは、現代でいう「ステルスマーケティング(以下、ステマ)」のような施策を実施していたというものだ。今回は後者を紹介したい。
20世紀初頭のパリのアート市場は世界最大であり、すでに作品の買付やオークションなどが行われていた。つまり、需要と供給の原理が働く資本主義的なマーケットのもと、世界各国の気鋭のアーティストがパリに集う「芸術の都」だった。まず、画商に買ってもらわない限りは、市場に参加することはできない。しかし、画商の側に立つとまだ話題にもなっていない駆け出しのアーティストの絵を買うのはリスクが高い。しかも当時のピカソは貧乏なスペイン人画家にすぎなかった。優秀な才能がひしめくパリは、まさにレッドオーシャンである。
そこで、ピカソが思いついたのが「需要を(無理やり)作り出す」という作戦だった。具体的には、ピカソは友人を雇い、画商に行き「ピカソという画家の絵はないか?」と尋ねさせるというものだった。先述の通り、画商にとって無名アーティストの作品を買い付けることはリスクが高い。一方で、有望な若手の作品を買い付けることができれば、それは利ざやの大きい投資になる。こういった画商の心理に働きかけるのが狙いだった。これはあくまで逸話であって、真偽の程は定かではない。しかし、もし当時ピカソの「ステマ」的な作戦に騙されている画商がいたとするならば、のちにとんでもない利益を生み出していたかもしれない。
ここからはピカソがイノベータ−としての地位を確立してからの行なったマーケティング戦略について紹介したい。ピカソは多様な作品を制作した一方で、作品に対しての説明を怠らなかった。ピカソは自身の新作をお披露目する際には、取引のある画商をアトリエに呼び寄せて、新作発表会を行なっていた。この催しは、自身の制作意図を画商に正しく伝えるとともに、同席する画商たちに競争を促す意図もあった。
自身の作品の価格を吊り上げ、画家としての地位の確立や自らが生み出した手法の認知など、さらなる利益を生み出すことだ。画商とは作品の市場価格の決定権を持つ者を指すが、仕入れ値が高ければ高いほど売値は上がる。そして、その買い手が作品を手放すときは、仕入れ値よりも高く売りたくなるものだ。芸術の価値は作者に依存し、芸術作品の供給は作者の死により途絶える。ピカソの場合は、時代区分による作品の多様性から、存命中から作品は需要過多の状態を作り出していた。そういった意味で、ピカソの作品の価値は値崩れを起こしにいくい投資商品となっていると推察される。
ピカソは自身の作品の価値を最大限意識した画家であるといえるが、一方で「金を受け取らなかった」案件もある。それはフランスのボルドーワインの高級ワインで「5大シャトー」と呼ばれるシャトー・ムートン・ロートシルトのエチケット(ラベル)制作の仕事だ。このワインは毎年エチケットに画家の作品を採用することで有名であり、ピカソは1973年ヴィンテージを担当した。
その際の報酬はワイン数ケースの現物支給(シャトー・ムートンでは、エチケットデザインの報酬をワインで支払うのが慣例となっていて、現在でも続いている)。現在の日本における実勢価格が約16万円なので、当時のピカソからしたら相当安く依頼された案件だろう。しかし、それでもピカソが担当したのは、シャトー・ムートンのブランド価値と、自身のブランド価値を掛け合わせた「タイアップ」的な意図があったのかもしれない。ちなみに、ロートシルトとは英語読みで「ロスチャイルド」。オーナーは世界最大の金融財閥である。
ピカソに学ぶオーナーシップの重要性
ピカソは現代にも大きな影響力を持つ巨匠であると同時に、ある意味では世界最大にして、世界で最も影響力を持った個人事業主だろう。その前提には、ピカソは間違いなく、世界随一の天才であったことはいうまでもない。一方で、ピカソが現在でもそのような評価をされ続けるのは、制作だけでなく市場へと送り出すことに対してもコミットしていたとことも理由の1つだろう。
ピカソはセルフ・プロデュースにより「ピカソ・ブランド」を作り上げ、市場の活性化を行なった。つまり、ピカソは自身の作品にオーナーシップを持ち、自らが発信することによって、そのブランディングに寄与していたのだ。2021年に開催されたクリスティーズのオークションで、ピカソの絵画は約113億円で落札された。ピカソ・ブランドは没後50年を経て、より強固なものとなっている。
作品の金額が評価に直結するわけではないが、ビジネスという見方において、バリュエーションは非常に重視されるものだ。本コラムではピカソ自身のキャリアに焦点を当てた、非常に穿ったものである。実際のピカソの魅力を知るためには、その作品と直接向き合って確かめてほしい。芸術はやはり、作品ありきであり、それは生で観るに限る。その体験こそが、ピカソに近づくインスピレーションになるかもしれない。
(文:川島大雅)