筆者は、美術館のポータルサイトで武将や合戦について執筆していたことがあります。武将の生き方を現代のキャリアに投影させると、うまくはまることに気づき、この連載をスタートしました。

今回のテーマは、大河ドラマ『どうする家康』で松重豊さん演じる石川数正です。数正は「カミソリのように頭が切れる」家康の側近。徳川家の交渉ごとには欠かせない存在で、いつも眉間にしわを寄せ、ピリリと鋭い雰囲気を漂わせています。

数正は家康の側近中の側近でありながら、徳川家を出奔。前回の本多正信は出奔後、家康のもとに帰参しましたが、数正は戻ることはありませんでした。数正が出奔した理由とは…?

現代に生きるわたしたちが、戦国武将の生き方からキャリアを考えてみるシリーズ。石川数正の人生からはどのような「キャリア上の学び」が得られるでしょうか? 

石川数正とは

『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より石川伯耆守康昌(数正)

石川数正(1533~1593・生没年諸説あり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。信濃国松本藩(現在の長野県松本市)の初代藩主。

徳川家康の最古参の側近として今川家人質時代から仕え、西三河の旗頭として、東三河の旗頭・酒井忠次とともに活躍。「姉川の戦い」「三方ヶ原の戦い」「長篠の戦い」など多くの合戦で武功を挙げました。徳川家の交渉面でも力を発揮します。

小牧・長久手の戦い後の1585年、数正は家康の下から突如出奔し、宿敵・豊臣秀吉の家臣となります。秀吉の下でも順調に出世し、和泉国(大阪府南西部)8万石から信濃国松本藩10万石に加増移封されました。1593年ごろ、秀吉・家康に先立ち60歳前後で逝去。

【ターニングポイント】桶狭間の戦い後、主君家康が今川家より独立

石川数正は、徳川最古参の安祥譜代七家の一つである三河石川氏の家に、石川康正の嫡子として誕生。家康が7歳で今川家に人質となったころより常に付き従い、教育係として絶大な信頼関係を築きました。

数正は家康より10歳ほど年上、酒井忠次より5~6歳年下だとされます。ドラマでは『海老すくい』で周りを和ませる忠次よりも、常に感情を顔に出さずに佇む数正はむしろ貫禄を感じさせます(単純に忠次演じる大森南朋(なお)さんより松重さんの方が実年齢が上だということもありますが)。数正の「安定感」を引き出すためのあえてのキャスティングなのかもしれません。

数正にとってのターニングポイントは、1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が敗死し、主君家康がどさくさに紛れて独立を果たしたことでしょう。数正の交渉術なくしては、家康の独立は成功しなかったかもしれません。今川家から人質(家康の正室と嫡男)を取り戻し、織田信長との同盟(清須同盟)が締結できたのは数正の功績だとされています。

槍の名手として武功に優れ頭も切れる数正は、まさに家康の懐刀。主君である家康に正論を説き、ときには𠮟りつけます。今川氏真や織田信長など諸大名とも臆さずわたり合う度量の持ち主です。

【成功ポイント】徳川家の家老として出世街道をひた走る

 数正にとってのもう一つの転機は、2年後1562年の「三河一向一揆」。家康の3大危機の一つとされた大事件で、徳川家臣の約半分が一揆側に付いたとされます。

この一揆、石川家にとっては他家の比ではない重大事件でした。というのも、数正の祖父である石川清兼は、三河の一向宗門徒の総代のような立場にあったといわれるからです。そのため、祖父の清兼と父の康正は一揆側に付き、父は総大将として参加したとする説も。

数正自身は浄土宗に改宗してまで、家康に尽くしましたが、石川家の家督は叔父の家成が相続。これは、家成が数正同様に一揆で徳川方に付いただけでなく、家成が家康の従兄だったためといわれています。

 1569年、叔父の家成が掛川に移ると、数正は西三河の旗頭を任され、東三河の酒井忠次とともに活躍します。1579年に家康嫡男で岡崎城主の松平信康(演:細田佳央太さん)が築山事件(信康事件)で切腹すると、岡崎城代となりました。

徳川家臣団は、武功に優れた者が多く、数正や榊原康政のような文武両道の武将は少数派です。『どうする家康』の中でも、話し合うときには大抵、本多忠勝や井伊直政のような血の気の多い武闘派が「やってしまいましょう!」とオラオラ周りをたきつけます。それに対し、「いやそれはマズいのではないか」といわばストッパーの役割を果たすのが数正や康政です。

この流れ、ストッパー数正の言葉に対して、オラオラ派が聞く耳を持っていればよいのですが…。誰も聞いてくれなくなったら、数正にとってはきつい状況だろうな、と感じます。 

【成功OR失敗ポイント】突然の出奔、ライバルの豊臣家へ

 1582年「本能寺の変」で織田信長が討たれると、後継者の座を争い1584年「小牧・長久手の戦い」が勃発。信長次男・織田信雄と彼を推す家康が、豊臣秀吉を相手に戦いました。

この戦いは武力より政治力で勝敗がついたといわれます。突然信雄が豊臣側と和睦したため、家康は撤退せざるを得なくなりました。戦況では徳川方が有利だったにもかかわらず、戦後の和議は豊臣方の有利に進み、秀吉は家康に臣従を求めます。このとき秀吉との交渉を担当したのは数正です

翌1585年、数正は突然徳川家を出奔し、豊臣家臣となります。数正の出奔の理由はいまだに判明しておらず、安土桃山時代の謎の一つとされています。

諸説ありますが、主な理由として考えられているのは以下の通りです。

1.徳川家中での孤立・内通疑惑に耐えられなくなった説
2.秀吉に懐柔されて、うっかり乗ってしまった説
3.家康と不仲、もしくは家康の将来性を見限って秀吉を選んだ説
4.石川家の継承問題・叔父に家督を奪われたことを恨んでいた説
5.徳川家のスパイとして潜入した説

この中ではやはり、1の孤立説がありえそうに思えます。

実際に豊臣政権への対応について、徳川家中は真っ二つに割れていたと言われます。「小牧・長久手の闘い」では、武力で制圧されたわけではなかったため、徳川方の多くは「負け」と認識していなかったのかもしれません。酒井忠次・本多忠勝を中心とした「再度戦って秀吉を倒したい強硬派」が大多数の中、豊臣家の現状を知る数正は「秀吉に従ったほうがよい」と和睦を進言(まさに前項の懸念が現実となった形です)。

また、数正の息子たちは、秀吉の人質となった家康の次男・結城秀康の近習として仕えていました。数正としては、息子たちのためにも、秀吉と家康には仲良くしてもらわないと困ると考えるのは当然です。

その結果、強硬派に秀吉との内通を疑われ、孤立を深めたというのは、あり得そうな話。…しかし真相は闇の中です。

秀吉のもとへ走った数正がその後どうなったかといえば、順調に出世し、1590年深志城(ふかしじょう=現在の松本城)主10万石となります。同時期に酒井忠次が下総国臼井(千葉県)3万石だったことを思えば、悪い待遇ではありません。

しかし、酒井家が忠次の死後、徳川家に優遇されて現代まで家が存続しているのに対し、数正の石川家は子の康長の代で改易されてしまいます。数正は出奔の7~8年後に60歳前後で死去。秀吉より早く亡くなったため、豊臣家の凋落を見ずに済んだのは幸運だったのかもしれません。

転職の「成功」も「失敗」も自分が決める

石川数正の出奔は、ライバル企業への転職と考えるとわかりやすい事例でしょう。出奔当時、数正は52歳。現代では50代といえば定年退職も視野に入れた「仕事人生の終盤」を考える時期です。

大卒で入社して約30年。長年の不満は蓄積しています。本来乗れたはずの出世コースから外れたり、同僚と意見が合わず孤立したりは、現代でもよくある話。そのような中、ライバル企業のトップから直々に誘いを受けたとしたら…。

ここで数正について考えてみます。おそらく数正は長い間、家康の将来性を信じて勤めてきたのでしょう。家康の出世以外に、自身が生き残る道がなかったともいえます。けれど今、目の前に別の道が開かれたのです。自分が望めば、ここからは別の人生を生き直すこともできる…それなら秀吉を選んだとしても不思議ではない気がします。

冷静に考えれば、当時は家康より秀吉のほうが将来性は抜群だったわけです。後世のわたしたちは「見誤った」と簡単にいいますが、この時点で家康が天下を取ると断言できた人はいたでしょうか。

出奔の結果が成功か失敗かは、後世の人間が決めることではなく、数正自身が決めること。少なくとも数正は豊臣家に移った結果、面倒な交渉ごとや家臣との対立から解放されて、松本城や街の整備に精を出し、幸せな晩年を過ごしたといえそうです。

数正の事例から得られる、中高年の転職を成功させる「ポイント」は、自分が本当に望むことの「見極め」かもしれません。報酬などの待遇アップを目指すのはもちろん、あえてそこを目指さないのもアリ。若いころとは異なり、必ずしもキャリアアップや会社自体の成長が転職の条件である必要はないからです。

たとえ転職後の企業規模や待遇が悪くなったとしても「自分が本当に望む生活をするための転職」であるほうが、満足度を得やすいといえるでしょう。「人生の最後に今までとはまったく違った世界に飛び込む」数正の生き方、悪くはなさそうです。

(文:陽菜ひよ子

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― presented by paiza

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