筆者は、美術館のポータルサイトで武将や合戦について執筆していたことがあります。武将の生き方を現代のキャリアに投影させると、うまくはまることに気づき、この連載をスタートしました。
今回は、徳川四天王の筆頭・酒井忠次です。忠次は、徳川家康より15歳年長。家康にとって、頼れる兄のような存在です。大河ドラマ『どうする家康』で、温かくも厳しくもある忠次を人間味豊かに演じるのは大森南朋(なお)さん。
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『爺も やめておけ!』
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宴会のたびに「海老すくい」というコミカルな踊りで場を和ませたといわれる忠次。人望はピカイチです。しかし、忠次の功績をたどっていくと、ある暗い事件が影を落としており……その事件によって、忠次と家康の関係性が変わったともいわれます。
人質時代から家康を支え、武勇にも交渉事にも長けた武将として活躍した忠次。彼から得られる「キャリア上の学び」とは、どのようなことでしょうか?
酒井忠次とは
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三河国額田郡(現:愛知県岡崎市)生まれ。徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭。
1527年、松平家譜代の家臣・酒井忠親の次男として誕生。徳川家康の父・松平弘忠に仕えたのち、今川義元のもとへ人質として赴いた家康に同行しました。1560年桶狭間の戦い後は、徳川家の家老となります。
三河一向一揆や長篠の戦いなど、家康の主な戦いにすべて参加し武功をあげました。外交面でも重要な役割を果たします。同様に宿老であった石川数正の出奔後は名実ともに徳川家第一の家臣として、家康の天下統一に大きく貢献。
62歳で隠居した京都の屋敷は、豊臣秀吉より与えられました。織田信長は、長篠の戦いでの忠次の活躍を「まるでうしろにも目があるようだ」とほめたたえたと伝わります。
【ターニングポイント】人質時代から家康に仕え、政略結婚で血縁関係に
家康にとって酒井忠次は、多くの家臣の中でもとくに縁の深い存在です。というのも、家康の叔母・碓井姫(役名・登与(とよ)演:猫背椿)を妻としているため、家康にとって忠次は義理の叔父なのです。
忠次といえば『どうする家康』の初回で、結婚前の家康に向かってノロケのような発言をしていました。「女子(おなご)はよいものですよ。戦場でも妻の肌を思い出せば頑張れます」。おそらくこの時点で、忠次はまだ新婚でした。本当にノロケだったのですね。
史実によると、忠次と碓井姫が結婚したのはもう少しあと。碓井姫は最初の夫を桶狭間の戦いで亡くしているので、忠次が結婚したのは、家康よりも遅かったと考えられます。桶狭間のとき忠次は33歳。当時としては非常に遅い結婚です。
もしかすると、家康の人質時代には妻をめとる余裕がなかったとも推測されます。しかし、忠次同様に家康の側近として活躍した石川数正は、桶狭間以前に20代で子をもうけているため、やはりやや不思議です。
忠次は、並みの家臣以上に家康に忠誠を誓っていたのかもしれません。だからこそ、家康はさらに忠次との結束を高めるために、自分の叔母との縁組を勧めたのでしょう。政略結婚ではありましたが、ドラマ同様に、忠次と碓井姫は睦まじい夫婦だったと伝わります。
戦において、忠次は常に危険な先鋒をつとめました。三河一向一揆では、酒井氏の多くが一揆側に付き、ドラマ内では、妻の碓井姫が一揆側へ向かう親族を必死に引き止めるようすが描かれました。そのような中でも忠次は家康に従い、さらなる信任を得ます。
【挫折ポイント】信長に弁明せず、松平信康を切腹に追い込む
忠次の逸話の中でも、とくに有名で、のちに歌舞伎の演目にもなったのが『酒井の太鼓』です。三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗し、命からがら浜松城に逃げ帰った徳川軍。夜になり、城に迫る武田軍。そこで忠次は城門を開いて多くのかがり火を焚き、大胆に太鼓を打ち鳴らしたと伝わります。
これは中国の古い兵法書にある戦術「空城計」。あえて城を開け放し、敵を招き入れることで罠があると見せかける戦術です。ドラマでは、太鼓は鳴らさず静まり返ったままでした。忠次は戦でボロボロの体でしたので、到底太鼓を打ち鳴らすことはできなかったでしょう。
ドラマでは、信玄は「空城計」であることを見抜いたものの「この兵法を知っているとはおもしろい」と言って見逃します。
なぜ信玄が見逃したかについては、諸説あります。浜松城を攻める間に織田の援軍が到着することを恐れたとする説や、病の悪化を自覚していた信玄が先を急いだとする説など。
いずれにしても、家康は絶体絶命の大ピンチ。家康の唯一の味方である織田信長も、浅井・朝倉をはじめとする信長包囲網に囲まれた中で徳川軍の敗北を知り、覚悟を決めます。再度「桶狭間の奇跡」が起きなければ、家康にも信長にも未来はない状況でした。
しかし奇跡は起きました。織田軍との対決を目前にして信玄が死去。武田軍は退却を余儀なくされます。天は家康と信長に味方したのです。
強い結びつきのあった家康と忠次でしたが、あるできごとを境に暗い影がさしたといわれます。
それは1579年に起きた「松平信康(※)切腹事件」。家康の嫡子・信康と正室・築山殿が織田信長に謀反を疑われて、信長の命で家康が信康に切腹を命じた事件です。(※信康は家康の徳川改正後も松平を名乗ったといわれます)
ことの発端は、信康の正室・徳姫が姑の築山殿と折り合いが悪く、夫の信康とも不仲となったことです。徳姫は父の織田信長に「築山殿と信康が、武田勝頼に内通している」と訴えました。その書状を信長に届けたのが忠次です。娘の書状を読んだ信長は、書かれていることは本当かと忠次に問いただします。
あろうことか、忠次は信康をまったくかばおうとせず、すべてを事実と認めてしまったのです。その結果、信長は家康に、信康を殺害するよう迫りました。家康はなすすべもなく、信康は切腹、築山殿は臣下に殺害されてしまいました。
【成功ポイント】現在まで続く酒井家の血脈
「松平信康切腹事件」にはさまざまな説があります。
- 有能すぎる信康に危機感を抱いた信長が、娘からの書状を利用したとする説
- 信康の日頃の非道なふるまいから、酒井忠次が徳川家の将来を危惧していたとする説
- 築山殿は自分の両親を死なせた家康を憎み、信康を擁立して家康を亡きものにしようとした説
- 家康の浜松城派と信康の岡崎城派とに分裂し、岡崎城派が信康を担いでクーデターをたくらんだ説
- 信長の要求ではなく、家康と信康の対立が原因だったとする説
現在では、(5)の家康と信康の対立が原因だとする説が有力です。家康と築山殿は不仲だったとするのが定説のため、築山殿も同様に家康と対立していたと考えられます。
『どうする家康』では、有村架純さんが可憐で心優しい「瀬名姫」を演じており、家康との仲も良好です。勇猛だったと伝わる信康(演:細田佳央太(かなた))も、ドラマでは心優しい青年として描かれています。この事件をどう描くかは、かなりの見どころになるはずです。
話を忠次に戻しましょう。長い間、「信長の命で家康が信康に切腹を命じた」とする説が信じられてきました。そのため、息子が死んだのは忠次のせいだと考えた家康が、忠次を疎んじるようになったとするのが定説でした。
(3)~(5)どの説だとしても、家康には信康を殺害する理由があったと考えられます。忠次が責めを負う必要はありません。また(2)であった場合、忠次の行動は、ひとえに徳川家を思ってのこと。たとえ主君を怒らせても、信念を貫こうとする忠次の強い意志が感じられます。
実際に、忠次は「松平信康切腹事件」後も重用され続けました。1586年には家中では最高位の従四位下(じゅしいげ)に叙位されます。1588年には62歳で家督を嫡子・家次に譲って隠居。
二年後、関東に移封された家康から、家次は下総国臼井(千葉県)に3万石しか与えられませんでした。1596年、忠次は家康のつくる新しい世をみることなく、70歳で逝去します。
しかし、忠次の死後、酒井家は徳川家から非常に大切にされます。家次は、関ケ原の戦いでも大坂の陣でも武功をあげてはいませんが、上野国高崎(群馬県)5万石を経て越後国高田藩(新潟県)10万石に移封されました。さらに家次の子・忠勝の代で出羽国庄内(山形県)藩13万8000石へ。江戸時代を通じて家は存続し、明治を迎えて伯爵に叙されました。
現在も酒井忠次の血筋は続いています。鶴岡市にある致道博物館(ちどうはくぶつかん)の館長は、旧庄内藩酒井家18代当主・酒井忠久さん、副館長は忠久さんの息子で19代目の忠順(ただより)さんです。現代まで「忠」が通字(とおりじ)として続いていることにも、酒井家の誇りを感じます。
とくに江戸初期には多くの大名家が理由を付けては改易されました。そのような中で、こうして「家」が続いていることそのものが、忠次の功績が徳川家にたたえられ、愛されてきた証(あかし)といえるのではないでしょうか。

1622年に出羽庄内藩に入部したため、今年2023年は401年記念。
信念を貫く先に幸せがある
徳川家康第一の功臣として、その生涯を家康に捧げたといえる酒井忠次。
昭和の時代には、勤務する会社に人生のすべてをささげるように生きることはスタンダードな生き方でした。令和の現代では、そのように会社に縛られて生きる人は「社畜」と呼ばれます。しかし「命をかけてもいい」と思える会社に自分のすべてをささげることは、はたして不幸なことなのでしょうか?
憎むべきは、搾取するだけの会社に、どれほど苦しめられても逃れられなくなることです。会社の理念に共感し、心から好きだと思える会社なら、生活のすべてが仕事尽くしになったとしても、幸せなことではないでしょうか。
自分の中に一本筋の通った信念をもっていれば、たとえ一時的に不遇な立場になったとしても、また浮かび上がれます。酒井忠次の生き方は清々しく、このように生きてみたいと思わせてくれます。
(文:陽菜ひよ子)