筆者はフリーランス17年目のライターです。美術館のポータルサイトで武将や合戦について執筆していた経験から、「武将の生き方×現代のキャリア」について考える連載をスタートしました。

第7回は、大河ドラマ『どうする家康』に、満を持して登場した井伊直政です。徳川四天王の大トリとして、どのように登場するか期待が高まる中、初登場は予想の斜め上を行くものでした。

ジェンダーレスな魅力を持つ板垣李光人(いたがきりひと)さん、まさかの女装でいきなり家康に切りかかるとは。今後、『井伊の赤鬼』と恐れられた直政を板垣さんがどう演じるのか、大注目です。

直政といえば、伝わるのはその「イケメン」ぶり。容姿や才能に恵まれ、多くの人々を魅了した直政の人生から読み取れる「キャリア上の学び」とは何でしょうか?

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井伊直政とは

彦根城博物館所蔵品

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上野国(こうずけのくに=群馬県)高崎藩(高崎市)の初代藩主。のちに近江国(おうみのくに=滋賀県)彦根藩(彦根市)初代藩主。徳川四天王の一人。

1561年、今川家家臣・井伊直親の嫡男として遠江国(とおとうみのくに=静岡県西部)井伊谷(いいのや=浜松市北区)に誕生。父・直親を早くに亡くし、義理の叔母・井伊直虎と母・ひよの元で育ちました。

14歳で徳川家康に仕え、22歳で元服。主君家康が滅ぼした武田家旧臣と赤い軍装を引き継ぎ、「井伊の赤備え(あかそなえ)」と呼ばれるように。新参ながら数々の武功を認められて徳川四天王の一人に。

1600年関ケ原の戦いの2年後、42歳の若さで死去。

【挫折ポイント】祖父も父も今川氏に誅殺、自身も命を狙われる

井伊直政は、1561年に遠江国井伊谷の国人領主・井伊直親の嫡男として誕生。井伊家は大名・今川家の家臣でもありました。

井伊家には次々と悲劇が起こります。最初の悲劇は1544年、祖父の直光が、今川義元に謀反を疑われ、誅殺されてしまいます。父・直親が井伊家当主・直盛の養子となり、一門の女性・ひよと結婚して生まれたのが直政です。

さらに悲劇は続きます。当主の直盛が1560年「桶狭間の戦い」で戦死。家督をついだ直親も、徳川家康との内通を疑われ、2年後には今川氏真に殺害されてしまったのです。このとき直政はまだ1歳。幼なすぎて家督は継げず、代わりに叔母の次郎法師が家督を継ぎました。

1568年、家老の裏切りにより、井伊家居城の井伊谷城を奪われた上、今川氏に直政の命を執拗に狙われ続けます。幼い直政は、怯えながら寺院や親戚の家を転々として成長しました。

【ターニングポイント】徳川家康の小姓となり、側近として活躍

1574年、次郎法師と母のひよは、直政を、直親の頼ろうとした徳川家康の臣下にしようと考えました。まずは、ひよが徳川家家臣の松下清景に再嫁し、直政は松下を名乗ります。

1575年、家康への目通りが叶います。家康は直政が井伊家の者だと知ると、「自分と通じたせいで今川に殺された直親の子ならば」とすぐに小姓として召し抱えた、と伝わります。

大河ドラマでは、少し違った描かれ方をしています。浜松へ意気揚々とやって来た家康一行を待ち受けるのは、予想外の非歓迎ムード。むしろ憎悪すら向けられます。団子売りの老婆(演:柴田理恵)からは、石の入った団子を差し出される始末。

そこへ登場する花笠をかぶった身目麗しい踊り子たち。中でもひときわ美しいセンターの踊り子が直政ですが、明らかに家康に恨みをもって襲いかかるのです。

今川義元は、遠江国の領民に慕われるよい領主だったといわれます。そのような今川氏を滅ぼした徳川家康は、領民にとって許せない敵。ここまでは、おそらく史実通りでしょう。

「直政が家康に恨みを持っていた」が、はたして史実通りなのかは疑問です。ただし、大河ドラマは史実を元にした壮大なフィクション。脚色まで含めて、今後どのように描かれて行くか、楽しむとしましょう。

ここで特筆すべきは、井伊直政が誰もが認める「絶世の美少年」であったことです。徳川家康は男色の気はなかったとされますが、直政に対してだけは特別だったとも伝わります。家康がその場で直政を召し抱えることにしたのは、ただ単に直政が「美しかったから」なのかもしれません。

女装の演出は「直政の美しさ」を際立たせるためだとも考えられます。いずれにせよ、すでに女性同士の恋愛を描いている本作では、男色を描くハードルはグッと下がっているはず。女性同士の恋愛も男色の伏線だったのでは?とも勘ぐれます。

先述のように、家康と出会ったときの直政は母の再嫁先の松下を名乗っていましたが、家康によって井伊家の復興が許されます。旧領・井伊谷も井伊家に戻りました。

その気のなかった家康まで「虜にした」、かもしれない直政。どこまで史実だったかは謎ですが、その後、直政は家康の「えこひいき」を受け続けます。それが直政の不幸のはじまりとも言えますが…。

2年後に直政は、武田勝頼軍を相手に初陣を飾り、家康へ向けられた刺客を討ち取ります。身を挺して自分を守ってくれた美少年・・・そりゃ惚れてしまうのも仕方ありませんよね?

のちに家康が召し抱えることになった武田家の旧家臣団を与えられた直政。武田の代名詞・赤備え(あかそなえ=赤い軍装)もそのままに受け継ぎます。直政の部隊は「井伊の赤備え」と呼ばれ、恐れられるようになりました。

自軍に武田流の兵法を取り入れたことほど、家康にとって武田軍は特別な存在です。その最強軍団を直政に託したのは、家康にとって直政もやはり「特別」だったから、かもしれません。

【失敗ポイント】自分にも人にも厳しすぎた故の短命

家康に出会ったときの直政の想いがどうあれ、徳川家に仕えてからの直政は「どうしてそこまで」と思うほど主君・家康に尽くします。戦場では、自分の命を顧みることなく、常に一番危険な役目を担いました。

直政が出仕するまで、その役目を主に担っていたのが本多忠勝でした。しかし、忠勝が生涯ただの一度も傷を負ったことがないのに対し、直政はいつも傷だらけだったと伝わります。

直政の才は、武功よりむしろ、交渉術などの外交的手腕にあったともいわれます。

直政が元服し、本格的に活躍するようになった1582年は、本能寺の変で織田信長が亡くなり、歴史が大きく動いた年でした。

次の天下をめぐって、思惑が入り乱れる中、家康は難しい立場に追い込まれます。さまざまな交渉を直政は引き受け、見事に家康の期待に応えました。

1586年には豊臣秀吉より功績を認められ、従五位下に叙位、豊臣姓を下賜。1590年の小田原征伐後は、上野国箕輪(群馬県高崎市)に徳川家臣団の中で最高の12万石を拝領しました。

家康古参の家臣団と比べ、直政は新参であり、三河出身でもありません。そのような直政の異例の出世は当然、家臣たちの嫉妬の対象となりました。直政自身も非常に負けず嫌いで、尖った物言いをしたことも、周りの反感を買ったといいます。

直政自身、出世欲はほとんどなく、自分を救ってくれた家康への恩に報いたい一心だったのでしょう。周りを納得させるには、武功を上げるしかない、そう感じたのかもしれません。直政は、雑音に耳を貸すことなく、その後も危険な任務にまい進し続けました。

直政は自分に厳しい武将でした。それだけでなく、家臣にも厳しく、中には音を上げて本多忠勝の下へ走る家臣もいたと伝わります。

直政のストイックさが伝わるエピソードをひとつ。家康のピンチのひとつに「神君伊賀越え」があります。本能寺の変が起きたとき、摂津国堺(せっつのくにさかい:大阪府堺市)にいた家康一行が、伊賀の山を越えて三河へ帰国したときのことです。

途中空腹に耐えかねた一行は、神社のお供えの赤飯に手を出します。しかし赤飯を口にしようとしない直政に、「遠慮なく食べるがよい」と家康が声をかけると、直政はこう言いました。「もしここに敵が攻めてきたら、わたしは皆さんを逃がしてひとり戦います。討ち死にした腹からお供えの赤飯が出てきたら武士の名折れです」

自分にも他人にも厳しく、神経をすり減らして、ギリギリを生きた直政。天下分け目の「関ケ原の合戦」から2年後、家康の実現した太平の世をほとんど見ることなく、43歳の短い生涯を終えました。死因は、関ケ原での傷が元とも、戦後処理の過労がたたったともいわれます。

寛容社会のつくりだす「やさしい」連鎖

「自分に厳しいこと」は、悪いことではありません。普通の人が挫折するような習慣を長年続けていたり、年齢を重ねてもスリムな体を保っていたりするような「ストイック」な人は周りから賞賛されます。

しかし、自分だけでなく「他人にも厳しい」のは考えモノです。

現代社会にも、「自分にも部下にも厳しい上司」はいます。もちろん、「自分には甘いくせに部下には厳しい上司」よりはだいぶマシです。とはいえ、自分に甘い上司の悪口は言いやすいですが、自分に厳しい上司は批判しにくいもの。部下には二重にストレスがかかります。

また、自分にも他人にも厳しくしてしまう上司の心中を想像してみると、「自分に厳しくすること」に自分自身納得していないのでは?と感じます。自分の主義として納得していれば、部下の行動を「人は人」としてとらえ、「部下は必ずしも自分と同じようにしなくてもいい」と思えるのではないでしょうか。

「自分もこれほど自分に厳しくしているのだから、部下も同じようにして当然」と考えてしまうのは、まるで「姑にいじめられたから自分も嫁いびりをする」にも似た「負の連鎖」。

負の連鎖は負の感情しか生み出しません。どこかで人を許す「やさしい連鎖」に切り替えなければ、社会は殺伐となっていくばかりです。

直政の場合、彼の不幸な境遇がこうした生き方しか選ばせてくれなかったのだと、切ない想いがよぎります。今の世に生きるわたしたちは、せめて、直政のように自分を追い込むことなく「自分も他人も許しながら」生きて行けたらと思うのです。

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(文:陽菜ひよ子

― presented by paiza

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