私はフリーランス17年目のライター。以前に美術館のポータルサイトで日本史についての記事を執筆していました。日々武将の人生に触れる中で、時代は違えども、彼らの生き方の中には、今の厳しい世を生き抜くための重要なヒントが隠されていると感じるようになったのです。
今回のテーマは武田信玄。「好きな武将ランキング」では常に上位に顔を出す人気の武将です。
戦国随一の強さを誇りながら、なぜ、信玄は天下を取れなかったのか?
歴史ファンなら一度は考えたことがあるであろう、この命題について、現代のビジネスと絡めながら、考えてみたいと思います。
目次
武田信玄とは

甲斐国(現・山梨県)の戦国大名。「甲斐の虎」の異名を持つ名将。戦国最強と謳われた武田軍を率いた。
屈強な印象があるが、実際には結核の持病を持ち細身だったとも言われる。「猛将・信玄」のイメージは、高野山成慶院所蔵の武田信玄像によるところが大きいが、現在ではこれは信玄ではないとする説が有力。
本国甲斐以外に、信濃(現・長野県)や美濃・飛騨(現・岐阜県)、駿河・遠江(現・静岡県)などに領土を拡大するが、天下に向けて進撃中に急死。
江戸幕府を開いた徳川家康は、信玄の兵法を高く評価。江戸時代には神格化され、信玄の軍略を元に軍学書「甲陽軍鑑」が成立。武士の聖典として、広く親しまれた。
大河ドラマ『どうする家康』では、阿部寛さん演じる信玄公が登場し、「面白い」と意味深に鼻で笑うと、「そろそろ終わりの時間」という図式ができあがってきたところ。

【挫折ポイント】信濃攻めに思わぬ苦労~家臣想いが裏目に
武田信玄は、甲斐源氏の嫡流・武田氏の嫡男(跡継ぎ)として1521年に生まれました。甲斐源氏といえば、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で八嶋智人さんの演じた武田信義が記憶に新しいですが、信玄は信義の直系の子孫です。八嶋さんが阿部ちゃんに……という点には深く突っ込みますまい。
1541年、21歳の信玄はクーデターを起こし、父・武田信虎を駿河に追放して家督を相続します。
クーデターは、ついて来てくれる家臣がいなければ、起こすことすらできません。成功したこと自体が、父・信虎に対する家臣たちの不満が募った結果だと考えられます。ここから信玄は、「主君の生死は家臣次第」と考えるようになったのかもしれません。
信玄は、非常に家臣想いの主君だったといわれます。家臣たちとは強い絆で結ばれ、「最強の武田軍団」の名を広く轟かせることになるのです。
信玄の持論が伝わっています。戦には、勝つより「負けないこと」が大切で、何より「勝ちすぎてはいけない」と考えていたといいます。あまり圧勝すると自身には奢りが出て稽古を怠り、相手には警戒されてしまうことが、その理由です。
また信玄は、家臣を疲弊させないためにも、無駄な戦はしませんでした。「絶対に負けない」と確信したとき以外は出陣しなかったともいわれています。父・信虎が家臣に見限られたのは、ダラダラと戦が続いたせいだとされていたことも、教訓となっていたのでしょう。
家督を相続した信玄は、翌1542年に信濃を攻めます。
「戦わずして勝つ」の持論から、正面からぶつからず、なかなかに汚い手を使いました。敵の当主を和睦と見せかけておびき出し、自害に追い込んだり、怖がらせて投降させるよう、見せしめに残忍なことをしたりしたといいます。
こうした信玄の戦略は完全に裏目に出ました。北信濃の武将・村上義清を激しく怒らせ、投降どころか決起させてしまいます。1548年と1550年の二度にわたり両軍は激突、武田軍は二度とも大敗を期すのです。
ここまでを現代の私たちに置き換えて考えてみましょう。自社の社員は大切にするけれど、ライバル企業にはあくどいことをおこなうケースや、あるいは下請け業者に無理難題を押し付ける、といったケースに似ているかもしれません。
因果応報。「やられたら倍返し」で、必ず悪事は返ってきます。また武士の時代とは異なり、倫理的に正しくない会社にまともな社員は残りません。
無茶な条件を押し付けた結果、下請け業者が耐えきれず倒産したり、ライバル会社に取られたりすることも少なくないでしょう。その結果、自社製品に不可欠な優秀な技術を持つ下請け業者を失ってしまったら、自社の存続すら危ぶまれる事態になってしまうのです。
【ターニングポイント】虎 VS 龍 互角の戦いに12年を費やす
村上軍との戦いは、1553年になってようやく武田軍の勝利で決着します。村上義清が助けを求めたのが、越後(現・新潟県)の上杉謙信。「軍神」と呼ばれる戦上手。「越後の龍」の名で、「甲斐の虎」信玄と並び称される最強の武将です。
上杉謙信は、周辺の武将から助けを求められると、必ず助太刀する「義」に厚い人でした。村上氏の救援に応じた謙信と信玄が、1553年~1564年の12年にもわたって5回も戦いを繰り広げたのが「川中島の戦い」です。
川中島の戦いは謎が多く、勝敗もついていません。どうやら信玄と謙信は、ほとんどまともに戦っていないのでは? と言われています。ここでも信玄は「戦わずして勝つ」ことを実践するのです。
信玄といえども、謙信には簡単に勝てないことはわかっていました。だからこそ、のらりくらりと正面切って戦うことから逃げていたのです。そんな信玄に業を煮やした謙信が、信玄が戦うほかないように仕向け、両者の対決が実現したのが第四次合戦です。
第四次川中島の戦いは、死者の数なら謙信の勝ちですが、上杉軍は先に撤退し、信玄は北信濃の土地を手に入れているため、どこを基準にするかによって、勝敗の判断は分かれます。
1564年の第五次合戦でも両者にらみ合うだけで戦は終了。領国に海のない信玄は越後こそ欲しかったでしょうが、「やはり上杉には勝てぬ」とようやく見切りをつけたのです。
正直「決断が遅すぎる!」と言いたくなります。12年もの間、信玄が謙信一人に手こずっている間に、周りでは何が起きていたのかを考えれば、そう言いたくなる気持ちがわかるはずです。
【失敗ポイント】今川攻めの時期を見誤る
川中島の戦いの間に起きた事件の中でも、エポックメイキング的なできごとといえば、第四次の前年・1560年に起きた「桶狭間の戦い」でしょう。
駿河・遠江・三河(現・愛知県)の3国を合わせ持ち、絶大な勢力を誇る大大名・今川義元と、尾張(現・愛知県)一国の領主にすぎない織田信長の戦い。当時の大方の予想に反して、織田軍は4,000程の兵力で、2万5,000もの今川軍に勝利するのです。
『どうする家康』の序盤で描かれたこのあたり。まさに信玄はここで、今川領に攻め込むべきだったのではないか? と私は思うのです。名将・義元の死で、求心力を失いズタズタになった今川。その先には未だ統一されていない三河。織田信長とて、数年後ほどの力はまだ持っていません。
しかし、信玄には今川領に攻め込めない理由がありました。今川氏と武田氏は同盟を結んでいたのです。同盟のお陰で背後から攻め込まれる心配がなくなり、安心して謙信との戦に専念できた信玄ですが、それでも謙信にはなかなか勝てませんでした。
ここまで読むと、信玄はそもそも本当に強かったのか? と疑いたくなりますが、そんな心配は無用。ここから信玄は天下に強さを見せつけます。
「川中島の戦い」終了後の1567年に、信玄は三河の徳川家康とともに今川領に攻め込みます。謙信に勝てないことがわかると、いきなり今川との同盟を破ってしまうのです。
その後、家康や信長との関係も悪化し、1572年には織田・徳川連合軍と本格的な戦闘を開始。武田軍は快進撃を続けます。かの有名な「三方ヶ原の戦い」では、徳川軍は無残に敗走。武田軍のあまりの強さに、恐れをなした家康が脱糞したというエピソードも長く信じられてきたほどです(現在この説は否定されています)。
戦国時代に「天下を取る」ためは「上洛(京都にのぼる)する」必要がありましたが、甲斐は京から遠く、地理的に不利でした。しかし、あとは織田軍を破れば、京までぐっと近づきます。ところが、そのあと一歩のところで、1573年、信玄は病が悪化。急死してしまうのです。
ここで信玄が死ななかったら、彼こそが天下を取っていたかもしれません。信玄が亡くなって一番ホッとしたのは、ほかならぬ信長だったでしょう。寿命は仕方がないにしても、「信玄が今川に攻め込むのが7年早ければ、十分天下を取れていたのではないか」……そう考えるのは、私だけでしょうか。
取引先やライバル企業への対応には要注意
武田信玄の生き方から、私たちはどんなことが学べるでしょうか。
信玄の持論「戦わずして勝つ」は家臣を疲弊させないうえでは有効ですが、そのせいで、村上軍の反発や「川中島」での停滞を招きました。また今川氏との同盟のせいで、東海道を攻めることができず、上洛への好機を逃す手痛い失敗も。
自社の社員を大事にするのはいいことです。しかし前述の通り、ライバル社を蹴落とし、下請けを大事にしていないと、自社に手痛いしっぺ返しを喰らうことも。また自社の利益にならない取引を続け、自社の「勝負時期」を見誤れば、経営自体が傾くことを示唆しているようにも思えます。
信玄は死に際に嫡男の勝頼に「何かあれば越後の上杉謙信を頼るように」と言い遺したと伝えられています。しかし勝頼の代で、武田家は滅亡。勝頼が謙信を頼っていたら、いやそれこそ、信玄自身が謙信と同盟を結んで信長に対抗していれば(謙信は信玄を嫌っていたとする説が有力ですが)……。歴史に「たられば」はありえませんが、つくづく、組む相手は重要だと、信玄の人生は教えてくれているように思えてならないのです。
(文:陽菜ひよ子)