旧来の風習というと、悪きものと想像することも多いだろう。しかし、各地方のしきたりや掟というものを辿っていくと、実は生存のための知恵であり、人間と外界とのバランスを保つために形成された合理的なルールである場合も多い。東北地方から北海道にかけて、非常に厳しい掟を重視し、集団で狩りを行った狩猟集団「マタギ」の掟についても同様のことがいえる。

いかに生存し、そしていかに持続的な自然との共生関係を構築するか。そのような思想に基づき形作られたルールは、現在の組織でも有益なのではないだろうか。
今回は、ルール形成における民俗学的なアプローチをしつつ、持続的な組織形成をするためのヒントを考えてみたい。

『ゴールデンカムイ』で描写されるマタギの習わし

岩手県遠野市。山々に囲まれた当地もまたマタギが行われていた(筆者撮)

「マタギ」とは、北海道から関東甲信越までの山間部で、伝統的な方法や宗教・倫理観を持つ狩猟スタイルとそれを行う集団のことだ。『ゴールデンカムイ』(原作:野田サトル、集英社)に登場する谷垣源次郎一等卒は、とくに有名な秋田県の阿仁マタギ出身という設定だ。

同作の舞台は北海道であり、話の中心は明治期の日本がもたらす近代化の波とアイヌ人の狭間で描かれているが、実は谷垣のマタギとしての背景も非常に綿密に描写されている。「マタギ」という言葉の語源は諸説あるものの、アイヌ語に類似する単語があるため、アイヌとの関係に言及する説がある(アイヌ語が語源説、アイヌへ伝播した説の両方が存在する)。

伝統的な文化を継承する北海道アイヌと東北のマタギ、その両者の類似性や独自の信仰心について言及するためにも、著者としては一つのエピソードに対しても精緻な描写を求めたのだろう。

たとえば谷垣が鶴見篤四郎中尉に過去を独白した際に登場した「カネ餅」は、実際に食べられた携行食で、各地域によって作り方やご法度がある。また、狩猟における回想では、当時の谷垣は「勢子(せこ/せご)」を務めている場面が描かれている。

マタギは集団での狩猟が基本で、7人から10人ほどで役割分担しながら獲物を追い詰めて狩るスタイルだ。マタギの主な獲物である熊は危機を察知すると山を駆け上がる習性があるため、勢子たちが山の下方から大きな声を上げて熊を追い詰める。山の上方では「ブッパ(ブンパ)」と呼ばれる鉄砲の射手たちが待ち構え、仕留め役となっていた。このような狩猟の一集団を束ねるリーダーのことを「シカリ」という。
※役割の名称やスタイルは地域差や時代の変遷により差異が見られる

さらに注目したいのは、熊撃ちの名人であり、脱獄死刑囚でもある二瓶鉄造の今際の際に、谷垣が唱えた以下の言葉だ。

”コレヨリノチノヨニウマレテ・ヨイオトキケ”
※表記は『マタギ 消えゆく山人の記録』(太田雄治著、慶友社)を採用

この言葉は「ケボカイ」という、マタギが仕留めた熊の皮を剥ぐ際の神事に唱える言葉だ。本来は密教系仏教などを由来とする呪文を順番に決まった回数を唱えた上で、最後に上記の言葉を唱えて締めくくる。これにより熊の魂を沈め、成仏を促す意図がある。
谷垣が二瓶にこの言葉を唱えたのは、その後皮を剥がされ刺青人皮とされる二瓶のその後を示唆する意図もあったのかもしれない。熊を追い自らも熊のように生き、谷垣に狩猟の教えを授けた二瓶への最大限の手向けともいえるだろう。

上述のように、『ゴールデン・カムイ』の登場人物の描写だけでも、マタギという組織と狩猟のあり方には体系化された掟が存在しているとわかる。長い前置きになったが、マタギの組織形成やルールのあり方について、これから紐解いていきたい。

行動・意思決定のプロセスと権限を仕組み化する

マタギの役割分担の簡易図(筆者作)

マタギの起源は平安時代または鎌倉時代にさかのぼる。身を守るものは弓矢や槍、鉈程度であった時代だ。山は多くの恵みをもたらす一方で、たやすく命を奪っていく。まさにハイリスク・ハイリターンであり、山という存在は明らかに「異界」だ。

集団での狩りを基本としているのも、より効率的で狩猟の成功率を上げるという意図もあるだろうが、人命を奪われないために、最大限のリスクマネジメントとして始まったと考えるのが自然だろう。組織やルールの形成においても、信仰に立脚したまじないの要素も含まれるが、1000年前後という長い年月で培った経験則から生まれた生存戦略が見て取れる。

先述の通り、マタギの組織構造はシカリをリーダーとし、それぞれが自身の役割を担う狩猟のスタイルだ。しかし、山に入ってからはシカリが絶対的な権限を持ちながらも、一人の行動いかんによって組織全体の生命に危険がおよぶ。

また、狩猟中は人間よりはるかに身体的機能が強く凶暴な動物を狩るための凶器を持っている。年齢の上下にかかわらず、遺恨が生まれれば自然だけではなく、人間すらも脅威となってしまう。

遠野駅南西の山中にある「五百羅漢」(苔むした岩々に羅漢が刻まれている)。なお、同地にも「クマ出没注意」の標識があり、筆者はものすごくビクビクしながら登った(筆者撮)

だからこそ、マタギはある意味で結社的な側面を持ち、近代になってから明かされた(ここでは詳述できないようなものも含む)儀式などを執り行いつつ、強固な団結力を築いていった。

さらに、注目したいのは、マタギに見られる利益の分配方法だ。これはいわゆる「マタギ勘定」と呼ばれ、解体した獲物の肉や、毛皮や熊胆などを販売して得られた利益は平等に分配するシステムをとっている。リスクを共有し、それぞれが役割をこなしたからこそ、得られたベネフィットは均等にする。

また、マタギが山に入り狩猟生活に入ることを「山入り」というが、山入りの前にはシカリの家に集まり宴会を行うこともある。現代風にいえばこの場はキックオフのようなものであり、一人ひとりの心身の健康状態や役割の確認、組織としてのモチベーションを高めることにもつながった。

一人ひとりがリスクに自覚的で緊張感を持ちつつ、組織と役割を明確にしつつ団結心を醸成、さらに平等で納得感のある報酬体系をとる。翻って現代で成長している企業の組織を見ると、マタギの組織体系に共通する部分も多いのではないか。

「マタギの掟」に見られるヒューマンエラーの最小化

マタギの始祖と呼ばれる万事万三郎について記録が残る立石寺(山形県)から望む山々(筆者撮)

マタギにとってのルール形成について考える際、そこには山岳信仰(山の神への信仰)と密教(仏教)の考え方がミックスされている点に特徴がある。その由緒を辿るとマタギの成立を記述した秘巻『山立根本巻』というものがあり、マタギにとっての聖典兼狩猟許可証のような位置付けになっている。

地域や前述の流派によりパターンがあるものの、マタギの由縁とともに、狩猟と肉食を正当性の根拠ともなっている。日本では長らく肉食禁止令が布かれており、解禁となったのは明治期になってからだ。秘巻に記載されている儀式や念仏を唱えることによって、宗教的な戒律をクリアできた。そのため、強い信仰心と戒めを守ること自体が、マタギの存在意義を保証している。

しかし、このような秘巻がマタギにとっての倫理規定だとすれば、具体的なルール規定については、やはり歴史の積み重ねと経験則によるものが多いのではないか。

加えて、東北地方における山岳信仰で重要な役割を果たした、山伏(山々を練り歩き修行する僧侶)の影響も大きいのではないか。実際、昨年筆者が旅行し、かつてマタギが山々を練り歩いた岩手県遠野では、現地の人々が山伏と交流した中で生まれた文化・言い伝えなどが多く存在する。

たとえば毎年11月下旬に催される神楽は山伏が伝えたものであり、系統を派生して幅広いバリエーションが現代に伝えられている。山野に親しみ、多様な知識を持つ山伏とマタギが交わることで、より豊かな知見が蓄積され、行動規範としてのルールが形成されていったのではないだろうか。

マタギの具体的な掟(ルール)について言及すると、その中には「安全を期すための掟」「組織を維持するための掟」があるように思える。それぞれの根本には山の神を怒らせないためという枕言葉があるものの、まずはそれぞれ一例を示してみたい。

安全を期すための掟
・山入り後は「山言葉」を用いること、里言葉は使ってはいけない
・女性の話や色恋話をしてはいけない
・山入り後の酒やタバコは禁止(ただし、山の神に捧げる御神酒は可)
・山入り中は身だしなみをよくすること

組織を維持するための掟
・山入り後はどんな場合もシカリの命令に従うこと
・山の神にまつわる12や死を連想する4などの数字を避ける(マタギの人数や狩猟する頭数など)
・出産直後の者はマタギに加えないこと

まず「安全を期すための掟」で登場する「山言葉」だが、これはマタギが山入り時に用いる独自の隠語のようなものだ。たとえば水や酒のことを「ワッカ」、米を「クサノミ」などに言い換え、山に入ったら日常の話し言葉を使うことは一切禁止された。

山言葉を使うことの意図は、ある意味で思考のスイッチのような役割をはたしていたと考えられる。狩猟は人里を離れ、舗装されてもいない山の斜面を歩きながら獲物を探す行為だ。

獣に返り討ちにされるだけでなく、ただ歩くことさえも危険であり、緊張感を持たなければならない。自らの置かれた状況とその危険性を認識し続けることにも一役買っていたのだろう。山言葉を前提としながら、そのほかに例示したものも、注意散漫になることを防ぐ教訓が感じられる。

「組織を維持するための掟」としては、シカリに従うことは前述の通り。人数や狩猟頭数の制限は縁起や山の神にまつわるものを用いつつも、集団で狩猟する場合の意思統一や集団での乱獲を防ぐ、いわばガバナンス的な機能があるように思える。また、出産直後の者をマタギに加えないことも、メンバーの精神状態を加味して不安要素のあるものを加えず、組織の安全性を担保するという意図もあったのだろう。

失敗から得た戒めが持続的な組織を形成する

当然ながら、マタギの掟には宗教的な意味合いが強いものも散見される(たとえば「山の神は醜く嫉妬深い女性とされ、それよりも醜い魚のオコゼを持ち歩くとよい」といったもの等々)。しかし、こと山の中にいる際の掟の多くには、ヒューマンエラーによる事故を防ぐための十二分な対策を講じるための禁忌という側面が強い。

ルールや規制は増えるたびに自由度を減らすものではあるが、一方で人命を保護するため、あるいは組織を継続させるために不可欠なものでもある。そのような事態が起これば取り返しのつかないことになるのは明白だ。

マタギが長い歴史の中でつくり上げたルールの特徴は、「自然」という客体をつぶさに観察し、過去の知見や経験則に立脚している点にあると考える。人間や組織の力を過信せず、むしろ本質的な「弱さ」を戒めるものだ。

おそらく、マタギの掟は数多の人々の失敗と犠牲があり、掟を破ったことによって起こった「災厄」の事例が層になって形成されたものだろう。狩猟や山入り中の行いの核が信仰心となっているのも、人間の強欲さや傲慢さを抑制し、自然と共生していくための原理原則となっている。

スタートアップや新規で立ち上げた組織の場合、事業の成長や安定化が第一であり、かつリソースも限られるためルールの策定が疎かになってしまう場合が多い。

しかし、そのような「自由でありながら混沌としている状態」の時期をいかに脱するかが、リスクマネジメントとして非常に重要になる。新たなことにチャレンジしている状態は、心理的に高揚しつつもストレスの高い時期である。

また、日々多大なタスクをこなし事業の推進に貢献しているという感覚は、自身に全能感をもたらすだろう。そういった際に生まれるのが慢心であり、組織の内外で問題となる行動を引き起こすトリガーともなってしまう。

身近な例として、会社名を明記したSNSアカウントが問題発言で炎上するケースが散見される。多くの場合で投稿者は共感を欲していたに違いないが、内容が明示すべきでない事柄や見る人への影響を慮ることなく投稿されたものだ。

このような炎上案件は要因も可視化されやすいが、リアルで起こる不祥事の潜在的な要因も、肥大化した自負心からくるものだろう。成長途上の企業にとって、コンプライアンスやガバナンス違反は企業価値や信用を毀損するものだ。まさに事業とはまったく関係ない、ヒューマンエラーによる事故だ。

情報社会の現代では、社会全体で幅広いケーススタディが蓄積されている。上述のSNS投稿のあり方を含め、過去の失敗を戒めとするルールを早急に策定し、明文化していくべきだろう。

(文:川島大雅

― presented by paiza

【参考資料】

『マタギ 消えゆく山人の記録』(太田雄治著、慶友社、1997年)
『マタギ 矛盾なき労働と食文化』(田中康弘著、枻出版社、2009年)
『マタギ奇譚』(工藤隆雄著、山と渓谷社、2016年)

パンフレット『第11回 遠野市郷土芸能共演会』(主催:遠野市郷土芸能協議会、共催:遠野市、遠野市教育委員会)

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