私はフリーランスのライター&イラストレーター歴17年。以前の会社員歴も含めれば、数多くの会社と関わってきました。その中でも、「良い会社だった」と感じる会社と、「もう二度と仕事をしたくない」と感じる会社があります。その違いは何だろうか?と考えました。
以前に美術館のポータルサイトで日本史に関するコラムを執筆していたことがあります。そのときに書いた、ある武将のことを思い出しました。
戦国時代から江戸時代にかけての武将で、「築城の名人」としても名高い藤堂高虎は、主君を7回も変えた不忠義者としても知られています。現代風に言えば「コロコロと転職を繰り返す、落ち着きのない人」といったところでしょうか。
本当に高虎は不忠義者だったのでしょうか? また、彼の生き方から、現代の我々が学ぶべき点はどこか? について考えてみたいと思います。
目次
藤堂高虎とは?

戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名。伊予今治藩主・伊勢津初代藩主。黒田官兵衛(孝高《よしたか》)、加藤清正と並ぶ「築城三名人」の一人。浅井長政から徳川家康まで計8人に仕えたとされます。
強烈な個性の築城名人、清正 VS 高虎
同じ築城名人でも、真逆の個性を持つ清正と高虎。城マニアの間でも、人気は分かれます。
戦国時代に活躍した加藤清正の城は、反りのある石垣が最大の特徴。忍者でも登ることが困難な石垣は、「武者返し」の異名を持ちます。また、豪華な「望楼型(ぼうろうがた)」の天守も、戦国時代に建てられた城の特徴のひとつ。清正の城は「難攻不落」を誇りますが、複雑な作りのため、築城に時間がかかるのが難点(例:熊本城)。
徳川幕府の天下普請による藤堂高虎の城は、無駄を省いたシンプルな城。清正の城とは対照的な「直線」の石垣が特徴です。高虎の編み出した「層塔型(そうとうがた)」の天守は、城を規格化し、同じ形の構造物を積み上げていくことで、工期やコストを抑えた合理的なものでした。幕府からの「早く、安く、丈夫」の要望に見事に応えた高虎の、実務能力の高さが現れています(例:江戸城)。
【挫折ポイント】仕えた相手が短命
築城についてばかりが言及されがちな藤堂高虎ですが、武将としても多くの功績を残しています。記録によると、彼は身長6尺2寸(約190cm)。当時としては規格外の大男だったとのこと。彼の遺体は体中傷だらけで、手足の指は、何本も欠けたり爪がなかったりしていたとされます。それも歴戦の賜物といえるでしょう。
1556年に近江国(現・滋賀県)の土豪(小豪族)の家に生まれた高虎は、兄の戦死後、14歳の若さで家督を継承。近江の戦国大名・浅井長政に仕えます。浅井家では初陣で武功を上げるなど大活躍。しかし、1573年に浅井家は織田信長に滅ぼされてしまいます。
このように、最初の主家替えは不可抗力ですが、ここから3年間で高虎は主家を3度も変えています。
1576年、20歳の高虎が仕えた4人目の主君が、豊臣秀吉の弟・秀長です。秀長は高虎の才能を見抜いて重用し、高虎は中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに従軍します。やがて高虎は秀長の「右腕」と呼ばれるまでに。築城の技術も秀長のもとで学びました。
ところが、1591年に秀長も50代で病死。秀長の跡とり・秀保に仕えますが、4年後に秀保は17歳で早世し、お家は断絶。またもや仕える家がなくなってしまったのです。高虎は主君2人を弔うため、出家して高野山へ籠りました。このとき高虎39歳。
【ターニングポイント】出家からの裏切り
高虎が主家を転々としたことが咎められるのは、江戸時代に国教化された儒教の教え「忠臣は二君にまみえず」が広まったから。戦国時代は能力のある武将が、主家を渡り歩いて出世していくのは、決して珍しいことではなかったともいわれます。
本当に高虎が不忠義者なら、秀長の家が断絶したからといって、武士の道を捨てるでしょうか。むしろ高虎は秀長に対しては非常に忠義を尽くしたといえます。それなのになぜ、不忠義者と言われてしまうのか。その理由は、このあとの高虎の行動によるところが大きいのです。
出家した高虎は、その才を惜しんだ、秀長の兄・豊臣秀吉の説得により還俗(出家した人が俗世に戻ること)。5万石加増されて伊予国板島(現・愛媛県宇和島市)7万石の大名となります。朝鮮水軍と闘って武功を上げ、さらに加増されて8万石に。
ところが、3年後の1598年に秀吉が亡くなり、1600年に関ケ原の戦いが勃発すると、高虎は徳川方について戦うのです。
このことが、高虎の悪評価の理由です。「豊臣恩顧の大名でありながら、秀吉が亡くなった途端に徳川方へつくとはけしからん」これが反高虎派の言い分。のちに高虎が家康に重用されたことへの嫉妬もあって、「不忠義者」「世渡り上手」などのレッテルを貼ったのかもしれません。
ここで考えてみたいのは、高虎にとって大切なものとは何だったのか? ということ。上記にも書いたように、「出世」が大切だったなら、出家する必要はなかったはず。
こうは考えられないでしょうか。高虎にとって大切だったのは、「秀長」であって、「豊臣家」ではなかったのではないか、と。
現代の私たちに置き換えてみると、大切なのは「信頼・尊敬できる上司や経営者」であって「会社そのもの」ではない、といった感覚ではないでしょうか。
【成功ポイント】この人と決めた相手には忠義を尽くす
藤堂高虎が7回主君を変えたことは事実です。しかし、高虎は主君を裏切ったことはありませんでした。
浅井家滅亡後に主家を転々としたのにも理由があります。浅井長政の次に仕えた、浅井の旧臣・阿閉貞征(あつじさだゆき)は主君を裏切って信長と通じるような卑劣な男でした。
次に仕えた磯野員昌(かずまさ)は、織田信長の𠮟責により出奔して行方不明に。3人目に仕えた信長の甥・織田信澄(のぶすみ)は、高虎が戦功を上げても報酬もくれない酷い主君だったのです。
優秀な人ほど、自分にふさわしい器の人の元で働きたいと思うものです。高虎にとって、徳川家康こそが、その器の人だったのでしょう。
高虎は家康に、誠心誠意、忠義を尽くしました。その結果、旧領を含む伊予・今治20万石の大名となり、さらに功を上げて伊勢・津32万石に加増移封(いほう)されました。
32万石が、どれくらいスゴイことかといえば、例えば父の代からの徳川家の家臣で、三河一向一揆で一度は裏切るものの、のちに帰参する本多正信(大河ドラマ『どうする家康』で松山ケンイチさんが鮮やかに演じていますね)は、最期まで2万石ほどしか与えられませんでした。それくらい、本来の家康はケチだったのです。
関ヶ原以降に家臣となった高虎は、名目上は「外様大名」ですが、実際には「家康の側近」として、「譜代大名」並みに扱われました。
家康と高虎の関係には、多くの逸話が残ります。その中でも特筆すべきは、1616年、家康の死ぬ間際のこと。外様大名でありながら、高虎は家康と話すことを許されます。
「死んだあとも、そなたと話したいが、宗派が違うから無理であろうな」
家康の言葉を聞くと、高虎はその場で天台宗の僧・天海僧正に頼み、藤堂家の代々の日蓮宗から天台宗へと改宗したのです。家康は喜び「(天海と高虎と自分の)3人の魂が末永く共に過ごせる場を作ってほしい」と遺言を残したため、日光東照宮には、3人の御霊が祀られているとのこと。
家康の死後は、二代目秀忠、三代目家光からの信頼も絶大だったと言われています。
「箱」ではなく「人」
高虎の生き方からわかるのは、彼にとって大事なのは「箱」(当時は「家」、現代なら「会社」)ではなく「人」だったのではないか、ということ。戦国時代は下剋上が当たり前。どんな名家でも、当代の主君が暗愚なら家の存続は危ぶまれます。だからこそ、自分の才にふさわしい主君を見極めることは命にかかわる問題だったのです。
高虎自身、部下には非常に寛大で情け深い主君だったことも伝わっています。例えば、藤堂家を去ろうとする家臣には「戻りたくなったらいつでも戻って来てもよい」と告げ、実際に戻ってきた家臣には、元の身分を保障したといいます。
もしかすると、高虎は、家臣の方が主君を選ぶ立場にあると考えていたのかもしれません。家臣に見限られるのは主君の方が悪いと考えていたのではないでしょうか。
高虎の生き方を、現代の私たちの立場に置き換えてみましょう。
就職先・転職先を選ぶときには、会社の知名度や規模(=箱)で選びがちです。もちろん勤務条件や待遇は大事。この不確定な世の中で多少の安定を担保するには、企業規模も無視はできません。しかし、高虎のように、「人」で選ぶのも、大切なのではないでしょうか。
現代では、経営者の理念や実際に働いている人の声を、SNSでの発信やインタビューなどで知る機会にも恵まれています。考え方に共感したり、「この人と一緒に働きたい」と感じたりした会社を選んでみるのはいかがでしょうか。
会社員として、フリーランスとして多くの会社と関わってきた私は、良い会社とは、「良い人のいる会社」だった、としみじみ思うのです。
(文:陽菜ひよ子)