人間にとって、大切なもののひとつが『人生観』だと思う。自分の生き様や生き方を示す指針になるのが人生観だからだ。
そんな『人生観が変わる出来事』が、ある。これまでの自分の言動を顧みるきっかけや、考え方を変えるような出来事は、苦い記憶や強烈なエピソードとともにやってくる。
今回はわたし、ライター・少年Bの人生観が変わった瞬間をお届けする。それは小学生のころ、父の病気とともにやってきた。
目次
親父がとんでもない病気になった
子どものころ、何度かテレビに出たことがある。
お涙頂戴もののドキュメンタリー。なぜかというと、親父が大病を患ったからだ。その病気の名は「慢性骨髄性白血病」という。
白血病とは、いわゆる血液のがんのこと。本来は白血球や赤血球、血小板になるはずの細胞が成長せずに無限に増え、正常な血液細胞が作られなくなってしまう、恐ろしい病気だ。その結果、血液の機能は失われ、本来は何でもないような感染症や小さな出血が脅威となってしまう。
いまは投薬で完治する場合もあるらしいが、残念ながら時は1990年代。親父に残された治療手段は、「骨髄移植」という手術だけだった。
血液細胞をつくるのは、骨の中にある「骨髄」という組織。骨髄移植とは、異常をきたし、正常な血液細胞を作れなくなってしまった患者の骨髄を、ドナー(骨髄提供者)の健康な骨髄に置き換え、病気を根本から治す治療法だ。
骨髄移植を行うには、「HLA型」という、白血球の型が一致しなくてはならない。だが、このHLA型は血液型とは比べものにならないほど多様で、血を分けたきょうだいでも4人に1人以下。他人となると、数百人から数万人に1人という、とんでもない確率になる。
さらに輪をかけて不運なことに、親父はこのHLA型が非常に珍しかったようだ。幼いころの記憶なのであいまいだが、「HLA型が完全に一致する人間は世界中探しても見つかるかどうか……」という話だったように記憶している。
この絶望的な状況の中、まだ小学生だったわたしは、なんと親父のドナーになることになった。
見つからないドナー、必死のボランティア
親父は3人兄弟の末っ子だったが、運の悪いことに兄2人のHLA型が完全一致。親父ひとりがまったく違う型だった。ドナーを見つけるのは、困難を極めた。
そんな中、我が家は個人でドナーを募らず、立ち上がったばかりの「骨髄バンク」という事業のボランティアとして活動を行っていた。
骨髄バンクは患者とドナーを匿名でマッチングさせる仕組み。「ドナー登録者が増えれば、親父に適合する骨髄が見つかるかもしれない」と、藁にも縋るような思いで活動を続けていた。
両親はともに30代前半。小2を筆頭に下は1歳まで、ただでさえうるさい4人の子どもの世話をしながら大病と向き合っていくのは、いま思うと信じられないぐらい大変だっただろうと思う。
当事者として講演にも出かけたし、バザーのようなイベントに出ては骨髄バンクのPRに務め、テレビの取材も積極的に受けた。出演したドキュメンタリーの録画をひたすらダビングし、ビデオテープを配るなどの活動もしていた。
わたしは4人兄弟の長男で、病気が発覚した当時はまだ小学校の2年生。「よくわかんないけど、パパは大変な病気になったんだな」というような認識でしかなかった。我が家のテレビはダビング中にチャンネルを回すことができず、今週のドラゴンボールZの話で友達と盛り上がれなかったのは、ちょっとだけさみしかった記憶がある。
もちろん、「そんなことを言えるような状況じゃない」とは理解していたし、子どもながらにせめて何かをしなきゃと、親父の病気についての作文を書いたりもした。岡山かどこかの大きなホールの壇上に上がって、その作文を読んだところ、聴衆が涙してくれた記憶もある。初めて文章を褒められたのは、たぶんこの時だろう。
両親に連れられ、さまざまな土地に行っては、色んな人たちの前で作文を読んだ。物怖じしない性格は、この時に作られたものかもしれないな、といまになって思う。
ただ、待ち望んでいたドナーは一向に現れず、2年が過ぎた。慢性骨髄性白血病は、発病から5年程度で急性転化するといわれており、検査の数値もどんどん悪くなっていた。ドナーが見つかっても、状況的に骨髄移植を受けられるかどうか……。すぐそこに死が迫ってきているような、追い詰められた空気が家族を包んでいた。
あの時、わたしはヒーローだった
ところが、ついに事態は動く。HLA型が完全一致でなくとも、親子間で骨髄移植をした事例が海外であったというのだ。さらに、その術式の研究をしようとしている病院が神奈川県にあるという。
「親から子、きょうだい同士で移植ができるならば、子から親へも移植ができないか?」。母がそのように聞いたところ、「検討してみましょう」との返事をもらえたそうだ。世界でもほとんど例のない、国内では初となる手術が動き出した。
相談の結果、長男で身長の一番高いわたしが、親父に骨髄を提供することとなった。
「麻酔をかけて、注射で骨髄を取るんだけど、もしかしたらそのまま目覚めないこともあるかもしれない。怖かったら断ってもいいのよ。」あの時の母の不安と期待が入り混じった目は、いまでも覚えている。ちょっと怖かったけど、大好きな父のためならば、とドナーになる決断をした。
ドナーとしての意思確認のためにIQ検査を受けることになった。通常ならばそのような検査を受ける必要はないが、まだ小学生だったわたしは、責任能力を備えていないとみなされる可能性がある。「IQの数字によっては、周囲の大人にやらなきゃいけないと吹き込まれているとみなされるため、ドナーになることはできない」と宣告されたのだった。
ところが、わたしが叩き出したIQは、なんと130。これがどれぐらいの数字かというと、人類の上位2%、mensaに入れるぐらいの数字だった。この時点で、わたしがドナーになることに反対する人間は、誰一人いなくなった。
もっとも、後年になって「高いIQの割に行動や発言が極めて幼いため、間違いなく多動症候群でしょう」と宣告されていたことが明らかになるのだが、それはまた別の話。
そのころにはもう、わたしの一家は地元ではちょっとした有名人だった。テレビではわたしの決意も放映され、地元の大阪から大病院のある神奈川へ引っ越す時には、学校でクラスメイトに見送られながら旅立った。親父を助けたいという気持ちは純粋だったが、ちょっとだけいい気になっていた自分もいた。
テレビでは「パパを救うヒーロー」として、自分を大きく扱ってくれる。それにIQは130だ。きっと天才に違いない。誰もがすごいと褒めてくれるし、おもちゃやマンガもいくらでも買ってもらえる。検査のために学校を休んでも、先生たちは何ひとつ文句を言わないばかりか、暖かく送り出してくれる。
わたしは他の人間とは違う、選ばれた特別な人間だ。だから、手術は絶対うまくいく。なぜならわたしはヒーローだし、「正義は勝つ」と決まっているのだ。
かくして、骨髄提供の日がやってきた。とはいえ、通常の骨髄提供とは異なり、小学生のわたしが体重差のある親父に骨髄を提供するには、複数回の入院が必要だった。
もちろん、骨髄提供の際にもカメラが入った。これは黒歴史だが、テレビのインタビューで「痛いですか?」と聞かれ、「悪い奴らにボコボコにされたぐらいの痛み」と答えた記憶が残っている。猛烈に怒った母以外の人間からボコボコにされた経験なんてないのに、完全にヒーローを気取っていた。
そして、すべてが終わった
手術は成功した。白血球が一切機能せず、病気に対しての抵抗力がないため、無菌室で隔離されるように暮らしていた親父は、一般病棟に移り、数日の帰宅体験を重ねるなど、徐々に日常に戻ってきた。ように思えた。
どれもこれも、わたしのおかげだ。わたしが骨髄を提供したから、親父はこんなに元気になったんだ。その様子は、テレビで日本中の人たちが知っている。どうだ、わたしはヒーローなんだぞ。
だが、幸せは長く続かなかった。健康を取り戻しつつあった親父は、ちょっと無茶をしたくなったのか。それとも、長期にわたる闘病生活に、飽き飽きしていたんだろうか。もう少し、ゆっくり復帰すればよかったのにと思うが、後の祭りだ。
親父は、健康な人間なら誰もが持っているような細菌による感染症にかかり、そのわずか数日後に亡くなった。
おかしい、こんなことありえない。あっていいはずがない。だって、わたしはヒーローだし、正義は勝つんだ。
親父が死んだ。その事実に対して脳は理解を拒み、身体は拒否反応を起こした。母親とともに、精神科に通う日々が始まった。
同時に、学校で始まったのは陰湿ないじめだった。ヒーローになり損なった少年は、調子に乗って特別扱いを要求し、周りを見下していた、ただのイヤな奴だったからだ。
さらに、勉強にもついていけない。入院で抜けた期間の勉強は、調子に乗って一切やっていなかった。土台のない家が、ちゃんと建つはずもない。
大阪にいたころはほとんど満点だったテストの点数は、あっという間に半分以下になってしまった。できない劣等生に、先生たちの態度も変わる。おかしい、おれは天才だぞ!? 他の連中みたいに、必死になって勉強なんてしなくたって、できて当たり前のはずなんだ。なのにどうして。
親父の命だけじゃない。一度は手に入れたと思っていたすべてが、掌からこぼれ落ちていった。
あの記憶から得たもの
あれから30年近い年月が経った。あのころの記憶は薄れつつあるものの、いまでもちゃんと残っている。
親父を助けられればそれでよかった。それなのに、周りの人たちにちやほやされているうちに、いつの間にか調子に乗って「自分がヒーローになること」が目的になってしまっていたように思う。だから、こんな強烈なしっぺ返しを食らったのだ。
あのころのいじめを肯定するつもりはない。本当につらかったし、何度も死のうと考えた。学校に行けなくなった時期もあった。あいつらのことは、絶対に許さないといまでも思っている。
ただその一方で、あのころのわたしみたいな人間が身近にいたら、そりゃあムカつくだろうな、とも思うのだ。特別扱いをしてもらって当たり前。自分は選ばれた特別な人間だ、という勘違い。言動の節々に、そういったものが多々出ていたな、と我ながら思う。もしあのまま大人になっていたら、ヒーローどころか承認欲求と選民意識にまみれた怪物になっていたかもしれない。
親父の病気も、周囲からのいじめも、自分の過去に黒い影を落とす苦い記憶には違いない。こんな目に遭わなければ、どんなによかったことか。
でも、小学生の身でありながら、リアルに「身近な人を救う」という決意を固めることができたことも。自分がこんなに慢心や増長をする人間だと気付けたことも。そして、人間の心は思ったよりも弱いのだと知れたことも。こんな目に遭わなかったら、絶対に経験することはなかったはずだ。
おかげでいまは真人間になった、などと胸を張って言う自信はないが、この時の経験があったからこそ、いまの自分があるのは間違いない。そういう意味では、親父が命を懸けて、人生の歩みかたを教えてくれたのかもしれない。
まもなく、わたしは亡き父と同じ年齢になる。
(文:少年B)
