筆者は、美術館のポータルサイトで武将や合戦について執筆していたことがあります。武将の生き方を現代のキャリアに投影させると、うまくはまることに気づき、この連載をスタートしました。
今回のテーマは、大河ドラマ『どうする家康』の序盤に登場した本多正信です。「知恵だけは回るイカサマ師」として家臣中の嫌われ者である正信を演じるのは、松山ケンイチさん。松山さんは正義感の強い役も、こうしたクセの強い役も「ピタリとはまる」すごい役者さんだと感じます。
現代に生きるわたしたちが、戦国武将の生き方からキャリアを考えてみるシリーズ。本多正信の人生からはどのような「キャリア上の学び」が得られると考えられるでしょうか?
目次
本多正信とは

本多正信(1538~1616)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名。江戸幕府の老中。相模国玉縄(現在の神奈川県鎌倉市)藩主。通称・弥八郎。
本多俊正の次男として、三河国(愛知県東部)で誕生。徳川家康に仕えますが、三河一向一揆では一揆側に付き家康と敵対。一揆が家康によって鎮圧されると徳川家を出奔して他家に仕えたとされますが、その間の足取りは不明。
1580年前後には許されて徳川家に帰参し、以降は家康の名参謀として活躍しました。文治派の家臣として、徳川政権樹立のために暗躍。家康と2代将軍・秀忠の2代にわたって徳川家を支えました。
【挫折ポイント】家康を裏切り出奔
本多正信は、松平氏譜代の家に本多俊正の次男として生まれました。家康より5歳ほど年上です。
実は、正信の前半生について詳しくはわかっていません。正信について最初に伝わるのは、1560年の桶狭間の戦いで足にけがをして以降、足を引きずるようになったということ。『どうする家康』の松山ケンイチさんの足を引きずる演技は妙に胡散臭く、印象的でした。
本多一族は、徳川家臣として多数の家が江戸時代まで活躍しています。とくに有名なのが、正信と徳川四天王の一人・本多忠勝です。忠勝は正信を嫌っていたといわれます。山田裕貴さん演じる忠勝が、正信について「あのような腰抜けは本多一族ではない」とバッサリ切り捨てていましたが、正信が戦で足が不自由になったことを思えば、ちょっと気の毒ではあります。
ドラマで正信は、瀬名(演:有村架純さん)奪還作戦の作戦係として活躍していましたが、これは史実ではないようです。正信の名が次に史実に現れるのが、三河一向一揆。正信は一揆側に付き、ドラマ同様、家康の命を幾度も狙ったそうです。
三河一向一揆は、家康の生涯において三大危機の一つと呼ばれるほどの出来事です。徳川家臣には一向宗の者が多く、約半分が門徒方に与したともいわれます。鎮圧後、家康は帰参を望む臣下を寛大に受け入れたといわれますが、正信はそのまま出奔してしまいました。
出奔中の正信がどのように過ごしていたかは、はっきりとはわかっていません。加賀国(石川県)はじめ諸国で一向一揆のプロとして活躍したとも、大和国(奈良県)の戦国大名である松永久秀に仕え、重用されたともいわれます。
【ターニングポイント】許されて友と呼ばれるまでに
その後正信は徳川家に帰参します。帰参時期については諸説あり、1570年「姉川の戦い」のころとも1582年「本能寺の変」の少し前ともいわれます。出奔して7年~15年ほどで帰参したと考えられるでしょう。
『どうする家康』で正信を家康に紹介したのは「自称・三河一の色男」大久保忠世(演:小手伸也さん)でした。史実では、出奔後の正信の帰参に一役買ったのが、ほかならぬ忠世だったそうです。
忠世は正信を「埋もれさせるには惜しい才能」であると、帰参の機会をうかがっていたのかもしれません。忠世は正信の出奔中、正信の家族の面倒もみていたと伝わります。忠世、中身は「男前」すぎますね!
とはいえ、帰参してすぐに武将として仕官が叶ったわけではなく、はじめは鷹匠として家康に仕えたと伝わる正信。なんといっても家康を殺そうとした男。大久保忠世以外の家臣からの風当たりは相当強かったようです。
正信は、武田氏滅亡後の信濃・甲斐国(長野県・山梨県)の奉行に命じられてメキメキと頭角をあらわし、1590年に家康が関東移封されると、関東総奉行に就任。ついに相模国玉縄1万石の大名となります。正信は行政官としての能力を大いに発揮して、江戸のまちづくりに大きく貢献しました。
そのような中、豊臣秀吉が全国を平定し天下統一を果たしたことが転機となり、世の中の価値観がガラリと変わります。
それまで表舞台に立って活躍するのは武功に優れた者たち(武断派)でした。しかし、戦がなくなれば、どれほど槍や剣術に優れていても、何の役にも立ちません。彼ら武断派に代わって舞台中央に躍り出たのが、正信のような頭脳明晰で実務能力に長けた人材(文治派)です。
一度は裏切った自分を許してくれた家康に恩義を感じた正信は、誠心誠意家康に尽くしたといわれます。いったん信頼関係で結ばれると、家康から「友」と呼ばれるほどの関係になりました。家康が何も言わなくても、正信にはその真意が伝わったといいます。
【成功ポイント】嫉妬から反発が高まるも、空気を読んで回避
正信は秀吉の死後、徳川政権樹立のために、まさに「暗躍」しました。家康のおこなった謀(はかりごと)の背後には、常に正信がいたといわれます。名参謀とはそうしたものですが、いわば、家康のために、一手に「汚れ仕事」を引き受けたわけで、これは信頼関係がなければ務まりません。反対に、うまく務めれば信頼関係がグッと高まったと考えられます。
1603年に家康が江戸幕府を開くと、正信は家康や2代将軍の秀忠に重用されるようになり、老中まで上り詰めます。おそらく強大な権力を手にしたと思われますが、なぜか正信は加増をかたくなに断りました。
正信の領地は相模国玉縄1万石(最終的には2万2,000石ともいわれる)です。これは徳川四天王である本多忠勝や井伊直政が10万石超えであることと比較して少なすぎます。正信には持論があり「3万石以上を受ければ、禍が降りかかる」と嫡男の正純(まさずみ)に説いていたと伝わります。
正信は頭脳明晰なだけでなく、「空気の読める人」でもありました。「自分が周りからどう見られているか」がしっかりと見えていて、自分がどう行動すべきかがよくわかっていたのです。
徳川政権の樹立は、武断派が戦い、文治派が交渉を重ねた結果成しえたこと。どちらが欠けても成り立ちません。しかし武断派が「自分たちが命がけで戦ったお陰」だと考えるのも無理からぬことです。平和な世になり、脇に追いやられた武断派が、文治派に反発することも、正信には予測できていたのでしょう。その反発を和らげるためには、禄を受け取らないに限ると正信は考えたのです。
1616年に家康が逝去すると、正信も後を追うように亡くなりました。正信の生涯だけを見れば、十分に「成功した人生」であったといえるでしょう。
正信の予想は、子の正純の代で現実のものとなります。正純は下野国(栃木県)小山藩5万3,000石から宇都宮藩15万石に加増転封(てんぽう)されました。家康と円満な関係を築いた正信とは異なり、正純は秀忠から疎まれるようになったといわれます。転封は、亡き家康の遺命とも正純を江戸から遠くへ追いやる秀忠の意図があったともいわれ、加増により周り中の恨みを買うようになりました。
正純自身は加増を固辞したともいわれますが、将軍の命で断り切れなかったのかもしれませんし、どこかで自分の力を過信したのかもしれません。
あろうことか、正純は秀忠暗殺の画策をはじめとした14カ条もの罪状を疑われ、改易(家の取りつぶし)の上、流罪となってしまいました。正信の成功を、正純は継承しきれなかったのです。
「武断 VS 文治」は現代にもある問題
戦国時代から江戸時代にかけての「武断派と文治派の対立」は、現代の企業における「現場と内勤の対立」に近いかもしれません。
企業が成長する過程では、製造や営業など「現場」の人々の力が重要です。企業の成長後、現場の人々には、自分たちこそが会社を大きくした立役者だという自負や誇りがあるでしょう。
そのような中、社外からやってきた人が机の上で数字の分析をして、偉そうに指示を与えたとしたら、反発を招くのは当然です。ある程度大きくなった企業では、むしろ分析こそが重要視され、破格の条件で招かれているケースも少なくありません。
汗水流して働く自分たちより、空調の効いた部屋でPCのキーを叩いているだけの人間のほうが、はるかに高い報酬を得ている…現場の人々の立場で想像してみると、はらわたが煮えくりかえる…かもしれません。数字の分析も決して楽な仕事ではありませんが、やったことのない仕事を理解することは難しいものです。
こうした「武断派(現場)の反発」を和らげるために、正信(内勤)は報酬を辞退する道を選びました。江戸時代には周りの反発が死に直結することもあったため、それくらい思い切った対策が必要だったのです。
「自分は現場など気にしない」というなら、そのまま突っ走ればいいでしょう。しかし、業務をおこなう上では現場の協力が不可欠なときもあります。現場の人々と一緒に気持ちよく仕事をするためには、報酬の辞退に限らず、彼らの気持ちを和らげるような行動を心がけるべきです。
たとえば、定期的に製造や営業の現場に足を運び、彼らがどのように仕事をしているかを「実際に経験してみる」など。まずは現場の人々を「知ろう」「歩み寄ろう」とすることが大切なのではないか、と思うのです。
(文:陽菜ひよ子)