筆者は、美術館のポータルサイトで武将や合戦について執筆していたことがあります。武将の生き方を現代のキャリアに投影させると、うまくはまることに気づき、この連載をスタートしました。

今回のテーマは武田勝頼です。勝頼といえば、父・信玄の作り上げた『無敵の武田軍団』を滅亡に招いた愚将、とする評価が、長年多勢を占めてきました

大河ドラマ『どうする家康』の勝頼役は、眞栄田郷敦(まえだごうどん)さんです。郷敦さんはアクションスター・千葉真一さんの次男として誕生。カリスマの子として生まれついた郷敦さん自身、勝頼と重なる背景を持ちます。

郷敦さん演じる勝頼は圧倒的な存在感で「天下取りの相」があります。このまま徳川家康にも織田信長にも勝利し、天下を取ってしまいそうです。初登場の際には、武田家に人質に取られていた家康の弟・松平定勝の口から、彼の勇猛さが語られ、鮮烈な印象を残しました。

勝頼の代で、なぜ武田家は滅んだのでしょうか?勝頼の人生から得られる「キャリア上の学び」とは、いったいどのようなことでしょうか?

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武田勝頼とは

高野山持明院所蔵

武田勝頼(1546~1582)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国(山梨県)の武将・戦国大名。『甲斐の虎』と恐れられた武田信玄の四男で後継者です。母方である信濃国(長野県)の諏訪氏を継いだ後、信玄の死により武田氏の家督を相続。甲斐の支配を目指しましたが、家中の内紛や外敵との戦いに直面し、苦境に立たされます

長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗したことで、多くの家臣の離反を招きました。上杉氏や佐竹氏と同盟を結び、織田氏とも和睦を模索しますが、甲州征伐で信長に侵攻されます。敵の圧倒的な力に抗することはできず、勝頼は嫡男・信勝とともに天目山で自害しました。

こうして平安時代から続く名門・武田氏は滅亡。勝頼は、勇猛な武将としての才能を持ちながらも、武田家の衰退とともに悲劇的な結末を迎えました。

【飛躍ポイント】四男でありながら家督を継承

武田勝頼は、武田信玄の四男として1546年甲斐国に生まれました。母は信濃国の戦国大名・諏訪頼重の娘であることから、諏訪御料人(すわごりょうにん)と呼ばれます。のちに勝頼は武田家の家督を継承しますが、そもそもは四男で、嫡子ではありません。信玄の方針で、勝頼は母方の諏訪家を継ぐことが定められていました。

というのも、勝頼の祖父・武田信虎は諏訪氏と同盟関係を結んでいましたが、父の信玄の代になると、諏訪氏との関係は悪化。1542年、武田軍は諏訪に侵攻し、諏訪頼重は自害。信玄は頼重の嫡子を廃嫡の上、娘を自分の側室に迎え、生まれた男子を諏訪家の後継者にすることを決めます。こうして生まれたのが勝頼です。

敵将の娘である諏訪御料人を迎えることは危険であると、家臣の間で反対の意見もあったといわれます。たしかに、自分に恨みを持つ妻と寝所をともにすれば、いつ寝首を掻かれるとも限りません。このような中で誕生したため、勝頼は生まれながらにして武田家臣からは招かれざる存在だったともいえます。

1561年、勝頼は16歳で諏訪家の家督を継承し、諏訪四郎勝頼と名乗ります。勝頼の「頼」は、諏訪家の男子の名に代々入る「通字(とおりじ)」です。武田家の「通字」は「信」ですが、勝頼の名には入っていません。つまりこの時点で、勝頼は武田宗家とは切り離された存在となり、諏訪家を武田一門に加えるための駒となりました。

ところが、1565年に勝頼の兄で武田家嫡子の武田義信が、父信玄への謀反の疑いで廃嫡されてしまいます。次男の海野信親は盲目のため出家しており、三男の信之は夭折(ようせつ)。と、ここで武田家の後継者として勝頼が急浮上したのでした。

勝頼の正室・龍勝院は織田信長の養女(信長の姪)です。龍勝院の産んだ嫡子は信勝と名付けられ、16歳になったら武田家を継ぐと定められました。こうして勝頼は、数奇な運命を経て信玄の後継者となったのです。

【ターニングポイント】天下目前での父・信玄の死

信玄は勝頼をどうみなしていたのでしょうか。研究者の間でも愚将扱いされてきた勝頼ですが、郷敦さんが演じている通りの勇猛果敢な武将であったと近年では見直されてきています。1563年の初陣で武功を挙げ、その後の信玄の戦にはドラマ同様父とともに出陣。信玄にとって勝頼は、頼りになる将来有望な後継者だったと考えられます。

1568年、信玄と勝頼は今川領の駿河攻めを開始。そもそも信玄が上杉謙信と10年以上もの間「川中島の戦い」を続けたのは、領国に海を持たないため、日本海を目指していたからだといわれます。当時の交易のメインは日本海でした。しかし謙信はあまりに強すぎた上、ふたりが戦う間に、織田信長という新たな脅威も登場しました。

そこで信玄は路線変更して太平洋側へと進路を変えたのです。しかし、駿河領攻めをともにおこなった徳川家康とも、同盟を結んだ織田信長とものちに関係が悪化。

1572年武田軍は、徳川領である遠江国(とおとうみ・静岡県西部)に攻め込むと、三方ヶ原の戦いで徳川軍を徹底的に叩き潰します。勝頼の隊は多くの首級を挙げました。家康にとって頼みの綱の織田信長も浅井・朝倉や一向宗徒など敵に囲まれていたため、織田・徳川軍は絶体絶命となります。

武田軍は駿河国内で年を越し、翌1573年1月には三河に侵攻。2月に入ってからも順当に勝ち進みます。武田軍の勝利と京への道は目前に見えましたが、信玄の持病が悪化。そのまま武田軍は進軍を停止し、4月に入ると撤退を始めました。

甲斐へ向かう三河の道中にて信玄没。遺言により信玄の死は秘され、表向き信玄は隠居したとされました。しかし、不自然すぎる撤退により、信玄の死は敵将たちの知るところとなっていたと考えられます。勝頼は諏訪氏から武田氏に復帰し、家督を相続しました。

【挫折ポイント】致命的な判断ミスで家臣の離反を招く

家督を相続したものの、勝頼をいまだ諏訪家の者とみなす家臣は少なくありませんでした。家臣たちを認めさせるためには戦いで勝つしかないと、勝頼は果敢に国外へ攻め入ります。しかしそれまで信玄のカリスマ性と強い統率力で導かれていた武田家は、戦うたびに内部から崩れていくのです。

窮地を脱した信長と家康は、武田家への逆襲を始めます。信玄亡き後の武田軍など大したことはないと、家康も信長もたかをくくっていました。しかしそれは大きな間違いでした。1574年に武田軍は、織田領・東美濃(岐阜県)の18城すべてと徳川領遠江国の高天神城を落とします。

難攻不落と言われた高天神城の落城の際には、勝頼は徳川軍を助命し自由の身にする寛大な措置をおこないました。徳川兵の中には感動して武田軍に投降する者も少なくなかったといわれます。武田家の領土は勝頼の代に最大となりました。しかし、家康に寝返った奥平氏討伐のために三河国の長篠城を攻めたことが、勝頼の運の尽きとなりました。これが有名な「長篠の戦い」です。

8時間にも及んだ戦いで、武田軍は多くの名将を失いました。一説には1万の兵を失ったとされます。これ以降の武田軍の戦いぶりは精彩を欠いたものとなります。

1578年には越後の上杉謙信が急死。謙信に実子はおらず、ともに養子である甥の景勝と後北条家出身の景虎による後継者争いが勃発。「御館の乱」と呼ばれるこの事件で、景勝は争いに勝利し、上杉家当主となります。

勝頼が景虎を支援しなかったことから、後北条氏との関係が悪化。武田氏と手切れとなった後北条氏と徳川氏は同盟を結びます。1581年、家康は高天神城奪回に乗り出します。勝頼は援軍を送ることもできぬまま落城。武田の威信は地に落ち、家臣の離反が相次ぎました。

翌1582年には織田、徳川、北条の軍勢が四方から武田領に攻め込みました。頼りの上杉氏は御館の乱後、かつてのような影響力を失い援軍は望めません。さらなる家臣の裏切りに遭い、逃げ場を失った勝頼は、嫡男・信勝や夫人と主に自害。甲斐武田氏は滅亡しました。

長篠の戦いの敗戦と御館の乱が致命的となり、武田家は滅亡したといわれます。しかし、破竹の勢いで勢力を増していた信長の前に、弱体化した武田軍はいずれ敗北したであろうという意見もあります。

ただ、勝頼死去の約2か月後に本能寺の変で織田信長が討たれていることから、もしそこまで勝頼が「最強の武田軍」とともに生き残っていたら、歴史はどうなっていたかわかりません。

「江戸幕府が250年続いた理由」から学べること

武田勝頼は織田信長にして「油断ならない奴」と言わしめるほどの勇猛な武将でした。優れた資質を持つ勝頼をもってしても、カリスマである父・信玄の家臣団を統率することは難しかったのです。勝頼の不幸は、一度諏訪家に出たため、武田家当主として家臣団に認められなかったことでしょう。

このようにカリスマの後継者が組織をつぶしてしまうのは、よく聞く話です。

昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも鎌倉幕府において、源氏の血は3代、しかもカリスマ・源頼朝の子の代までしか続きませんでした。同様に安土桃山時代でも、織田政権や豊臣政権も、信長や秀吉の子の代で終了しています。

ところが、徳川家康だけは、徳川家によって250年続く幕府を実現させています。それはいったいなぜか?おそらく、家康が将軍の座をたった2年で秀忠に譲り、その後10年もの間、大権現として睨みをきかせ、秀忠を支えたことが大きかったのではと考えます。

家康自身の力が及ぶうちにハッキリと後継者を秀忠と定めたことがまずは重要なこと。家康の目の届く中、秀忠はじっくりと幕府の基盤づくりに取り掛かることができたのです。

またカリスマの後継者は、カリスマである必要はありません。むしろ組織が大きくなる中では、トップが指示を与えなくても組織が動いていく「仕組化」を図らねばなりません。秀忠は家康の子の中でも武将としては凡庸だったとされますが、平和な時代の君主としてちょうどよいと家康は考えました。秀忠も家康の期待によく応えたといえます。

組織において有能なカリスマの後継者を育てるためには「前任者の力の及ぶうちに後継者を周りに認めさせることが重要」だといえるのではないでしょうか。

(文:陽菜ひよ子

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