筆者はフリーランス17年目のライターです。美術館のポータルサイトで武将や合戦について執筆していた経験から、「武将の生き方×現代のキャリア」について考える連載をスタートしました。

今回は、大河ドラマ『どうする家康』で杉野遥亮さん演じる、榊原康政です。のちに「徳川四天王」に数えられる名将・康政。捉えどころのない、少し不思議な康政の「ひょうひょうとした感じ」を、杉野さんが絶妙に演じています。

武力に秀でた四天王の中でも、康政は頭脳派でもあり、文武兼備の武将でした。穏やかな人柄やいざというときの肝の座ったところなど、多くの人に愛された康政。その人生から読み取れる「キャリア上の学び」について、考えてみたいと思います。

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榊原康政とは

-文化庁所蔵品

戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将。上野国(こうずけのくに=群馬県)館林藩(館林市)の初代藩主。徳川四天王の一人。

徳川家譜代の酒井家(四天王の一人・酒井忠次とは別の家)に仕えた榊原長政の次男として誕生。13歳で徳川家康に仕え、数々の合戦で武功を上げます。康政の「康」の字は主君家康から与えられたもの。

勉学を好み、文字もうまく、家康の書状の代筆を行っていたとされます。

江戸幕府開府後は、舘林藩にて自領のインフラ整備に尽力しました。そのため現在でも館林市では「康政公」と呼ばれ親しまれています。

【挫折ポイント】松平家陪臣の家の次男に生まれる

榊原康政は、1548年に三河国上野郷(現在の愛知県豊田市)に生まれました。生家の榊原家は、徳川家の陪臣(家臣の家臣)です。

次男として生まれた康政は、松平家の菩提寺である大樹寺で勉学に励みます。「どうする家康」では、康政の初登場は、大樹寺にある樹上で読書をするシーンでした。

康政は、このとき13歳。6歳年上の家康に見出されて小姓となります。康政にとって、運命的な出会いでした。

本来、さほど名門でもない家の次男に生まれた康政の前途は、残念ながら洋々とはいえませんでした。通常のルートでは、酒井家に仕える康政が、徳川家康に直に仕えることは望めません。

大樹寺で勉学に励んでいたころの康政は、自分の運命に疑問も感じてはいなかったでしょう。しかし、どこかで自分の力を試してみたい、そのような想いは持っていたかもしれません。

康政の初陣は16歳で迎えた三河一向一揆です。「どうする家康」では、一揆方に多くの家臣がつき、意気消沈する徳川軍。康政は「神罰は俺が引き受ける!」と叫んで場を盛り上げる、ムードメーカー的な役割を果たします。

敵陣に突入後は、最初こそ敵のかけた網にかかり、ポンコツぶりを見せますが、がむしゃらに敵に向かっていくようすが強く印象に残りました。

千載一遇のチャンスに食らいつく康政。彼の戦闘シーンには、常に必死さが見えます。本多忠勝が、徳川家古参の家臣・本多家の嫡男として生まれ、武勇の才能にも恵まれて堂々としているのとは対照的です。

【ターニングポイント】徳川家臣として大活躍、「徳川四天王」へ

同じ年の本多忠勝とは、ともに戦うことも多く、仲が良かったと伝わります。忠勝ほどの剛の者が近くにいれば、よい刺激となって、康政の能力は引き上げられていったでしょう。2人は武功を競い合うよいライバル同士だったと考えられます。

2人は家康の護衛も兼ねる旗本部隊の隊長・旗本先手役(はたもとせんてやく)に抜擢。「姉川の戦い」「三方ヶ原の戦い」「長篠の戦い」など、徳川家の主だった戦のほとんどで重要なポジションを任され、家康を守り抜きました。

四天王の一人で13歳年下の井伊直政とは、親友同士だったいわれます。「大御所(家康)の心の中がわかるのは、直政と自分だけ」とは康政の言葉。

忠勝と直政は仲が悪かったというのが定説です。2人のどちらとも仲良くできた康政は、誠実で温和な人柄だったのでしょう。

武器を持って戦うことより、部隊の指揮官としての能力に優れていた康政。かなりの策士でもあり、実際の兵より多く大軍のように見せるなど「相手を惑わす戦略」に長けていました。

なんといっても康政の名を一躍有名にしているのは、あの豊臣秀吉を怒らせたと伝わる逸話。

1584年、豊臣秀吉と徳川家康との直接対決となった「小牧・長久手の戦い」。その際、康政が達筆な文字で豊臣秀吉の「織田家への裏切り」を非難する檄文(げきぶん=声明文)を書き、立札にしてバラまいたのです。

当然怒った秀吉は、康政の首に十万石の懸賞をかけました。

のちに秀吉とは和解。秀吉は康政の忠義ぶりを認め、「従五位下・式部大輔」という官位や豊臣の姓(かばね)まで授けたといいます。昨日の敵はなんとやら。自らの命も顧みず主君に尽くす大胆な行動は、家康の宿敵・秀吉の心をも掴んだのです。

ところで、徳川四天王といつごろから呼ばれるようになったかは、実ははっきりとはわかっていません。「小牧・長久手の戦い」の2年後の1586年、榊原康政・本多忠勝・井伊直政の3人が上洛した際に「徳川三傑」と呼ばれるようになったことが始まりだと伝わります。

【成功ポイント】見習いたい「引き際の潔さ」

戦場において、敵味方を区別するために武将が持つ「旗印」。康政の旗印は「無」一文字です。康政がなぜ「無一文字」の旗印にしたのか、理由や正確な意味は伝わっていません。徳川家康のために「無欲・無心で戦う」もしくは「無名の一武将でいたい」といった意味であろうと推測されています。

旗印の通り、無私無欲だったといわれる康政は、徳川家臣の中でも「人品最も高し」と評されました。家康は康政の高潔な人柄と知性を頼みに、のちの二代将軍・秀忠の教育を一任したとも伝わります。

しかし、平和な世となってからは、康政も本多忠勝と同じく、政治の中枢から外されて行きます。

非常に悲しみ憤った忠勝とは異なり、康政は静かに受け入れ、自ら身を引きました。『老臣、権を争うのは亡国の非なり』(老いた者が権利を争うのは、国を衰退させる)と考え、政治に口出しすることはなかったそうです。

「館林にて隠居生活」と書かれることの多い康政ですが、実際には利根川の治水工事など、自領のインフラ整備に尽力し、見事な城下町を作り上げました。

1606年、59歳の生涯を終えた康政の最期は、心満たされた静かなものだったと想像します。

期待しすぎなければ、気楽に生きられる

戦国の世では、「嫡男」とそれ以外とでは、雲泥の差がありました。次男以下は、次代の当主である兄の家臣になるのが常です。どれほど家柄がよくても、出世は望めません。ましてや康政のように、そこそこの家に生まれたなら、なおさらです。(※1)

しかし、視点を変えてみると、期待を一身に背負う嫡男も楽ではありません。最初から期待されず、自分も期待しないほうが、気楽に生きられます。

康政の旗印「無」の意味は、彼の「余計な欲をも持たず、フラットでいたい」意思表明だったのではないかと思います。

「向上心は持つけれど、野心は持たず、過大な期待もしない」筆者が持つ康政の印象です。

これは現代を生きるわたしたちにとっても、取り入れたい考え方。

目の前の仕事をどこまで頑張るか?自分でコントロールできるのはそこまでです。出世や収入UPにつながるかどうかは、上司の裁量や時世の流れなど、多大に運に支配される要素で決まります。

自分ではどうしようもないことを、自分の人生の評価基準にするのもおかしな話です。人からの評価や結果は大切ではありますが、振り回されないようにしたいもの。

康政のように、潔く生きたいものです。

※1)のちに康政は病弱の兄に代わり、榊原家の家督を継いでいる

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(文:陽菜ひよ子

― presented by paiza

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