筆者はフリーランス17年目のライターです。美術館のポータルサイトで武将や合戦について執筆していた経験から、「武将の生き方×現代のキャリア」について考える連載をスタートしました。

第6回は、1987年伝説の大河ドラマ『独眼竜政宗』で知られる伊達政宗です。今や世界のケン・ワタナベの美武将ぶりに、大河史上最高の平均視聴率39.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録しています。

伊達政宗は「遅れてきた戦国武将」と呼ばれます。「戦国時代に遅れてやってきた」という意味です。「もし政宗があと10年早く生まれていたら、日本史は変わっていたかもしれない」とも言われます。

しかし、10年早く生まれなかったからこそ、政宗には価値があると筆者は考えています。政宗の生き方から、現代のわたしたちが読み取れる「キャリア上の学び」とはなんでしょうか?

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伊達政宗とは

伊達政宗 (1567 – 1636) 肖像画。土佐光貞 (1738 – 1806) 筆。東福寺・霊源院所蔵

戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将。出羽国(山形県)と陸奥国(宮城県・福島県)の戦国大名。仙台藩(宮城県・岩手県南部)の初代藩主。伊達氏の第17代当主。

伊達輝宗の嫡男として出羽国に誕生。幼いころに天然痘で右目を失明。隻眼の英雄の異名「独眼竜」といえば、日本では彼のこと。

幼少時より特異な才能を発揮し、18歳で家督を継ぐと、天下を目指して領土拡大を進めます。豊臣秀吉の天下統一に従いながらも、巧みな外交と戦略を展開し、自らの領土を守り抜きます。

江戸時代には仙台藩の初代藩主として、仙台の地を文化の香る、緑豊かな都市に作り上げました。

【挫折ポイント】遅れて東北に生まれた英雄

「戦国時代に遅れて来た」といわれる伊達政宗が生まれたのは1567年。政宗誕生の年がどのような年だったか。現在放送中の大河ドラマ「どうする家康」でも描かれた、武田軍と徳川軍が駿河の今川氏真(うじまさ)を攻める前年でした。

現在の大河の時間軸である「姉川の戦い」の起きた1570年には、政宗はまだ3歳児。家康の子らよりも幼い、かわいい盛りの子どもなのです。

政宗が歴史の舞台にその名を刻むのは19年後。1589年の小田原征伐を待たねばなりません。

小田原征伐の年、すでに織田信長はこの世におらず、豊臣秀吉が天下統一に王手をかけたところ。53歳の秀吉に対して、政宗は23歳の若者です。年齢差はなんと30。

それまでに政宗は奥州統一を目指して領土を拡大し大活躍していましたが、しょせんは東国の田舎での話にすぎません。当時は畿内(きない)と呼ばれる、現在の関西地方が政治の中心で、関東や東北は田舎扱いされていました。

そのような片田舎に生まれた伊達政宗は、幼少時に病で隻眼(せきがん:片目)となり、醜い痘痕(あばた)を気にして卑屈になっていたといいます。政宗のために父の輝宗は名僧を招き、僧の教えによって、政宗は武士のたしなみや深い教養を身につけます。

【ターニングポイント】奥州統一も天下統一も秀吉に阻まれる

小田原征伐の少し前、政宗が奥州から関東へ領土を広げようと狙っていたころのこと。豊臣秀吉はすでに日本の西側を統一し、残るは関東と東北のみ、という状況でした。秀吉は関東・東北の武将をけん制するために、1587年に惣無事令(そうぶじれい)を制定します。

惣無事令は「一切の私闘を禁じる」法令です。しかし、我らが伊達政宗はガン無視。ガンガン周りの敵国を攻めては領土を広げていきます。

その上、秀吉に参戦を命ぜられた小田原征伐には大遅刻。ついに秀吉を怒らせてしまいます。

秀吉に謝罪したときの政宗の行動は、「死装束での謝罪」としてあまりにも有名です。実は最近の研究では、このエピソードには資料の裏付けがないと言われています。実際にはどのような形だったかは不明ですが、政宗の謝罪は秀吉に伝わり、何とか死は免れたようです。

しかし、翌1590年の奥州仕置によって、会津領などを没収され、伊達家は100万石から72万石(さらに翌年の葛西大崎一揆後58万石)に減封されてしまいます。豊臣秀吉の天下統一が達成され、同時に政宗の奥州統一も天下統一の野望も崩れ去ったのでした。

とはいえ、政宗は天下人に追従後も「デキる男」ぶりを見せつけ、「油断できない奴」と警戒され続けました。当の政宗本人も「隙あらば」と徳川家康が死ぬまで天下を狙っていたとも伝わります。

【成功ポイント】太平の世で藩主として才能を発揮

政宗が生まれたころの東北地方は畿内と比較して、文化が数十年遅れていたといいます。

現代なら情報はネットワークで瞬時に届きますが、当時は情報も人が足で届ける時代。現代でも仙台-大阪間は、陸路では「新幹線で約5時間」かかります。当時の中央から東北が、本当に遠かったことが実感できます。

政宗は戦場では非常に獰猛な武将だったと言われます。反面、政宗は一流の文化人でもありました。

秀吉の時代、当代随一の文化人といえば茶人の千利休です。政宗は千利休に茶の手ほどきを受け、多くのことを学びます。学んだことを、政宗は自領に持ち帰り、独自のセンスで国づくりに反映させていくのです。

徳川家康が幕府を開いてからは、仙台藩(現在の宮城県)を見事な手腕で治め、奥羽の中心地として発展させます。

1613年にはスペイン帝国との通商のために、スペインおよびローマへ使節団を派遣。その後日本は鎖国に向かい、外交は実現しませんでしたが、日本からヨーロッパへの使節派遣は「史上初」でした。それを成し遂げたのが幕府や朝廷ではなく、東北の仙台藩だったというのが驚きです。

筆者は、政宗は現代でいえば才能豊かなデザイナーであり、プロデューサーだったと思います。

「伊達男」の言葉の由来は、1593年文禄の役に従軍した際の伊達家の装束からだとする説があります。全員黒でそろえた甲冑があまりに見事で、華やかな意匠を見慣れた京の人々まで大歓声を上げたそうです。

これには諸説あり、このエピソードから「派手な装いを粋に着こなす人」を「伊達者」と呼ぶようになったとも、「伊達者」は政宗誕生前から使われていたとも言われます。いずれにせよ、あとづけでも言葉の由来にしたくなるほど、伊達家の装いが素晴らしかったということ。

ファッションだけでなく、政宗には「まちづくり」に必要な「ランドスケープデザイン」のセンスもあったのではないでしょうか。「杜の都」と称される仙台のまちの美しさは、政宗の洗練された美意識の賜物です。

彼は、非常に筆まめで社交上手だったとも伝わります。手紙や贈り物で相手の心をつかみ、情報を得て外交に活かしたのです。

こうした政宗の才能が生かせるのは、天下泰平の世に生きてこそ。「戦国時代を生き残ったこと」こそが、彼の持って生まれた運だといえるでしょう。

もしも本当に政宗が10年早く生まれていたら、どうなっていたでしょうか。天下を取れるのはたった一人。敗れた者に待つのは死のみです。政宗も、天下を目指して無謀に西へ向かった結果、あっけなく散っていたのかもしれません。

むしろ天下取りとは距離のある場所にいた結果、無事に生き延び、藩主として充実した生活を送った政宗の人生、悪くはないと思いませんか。

大成功より大切な「人生の充実」

伊達政宗の人生における学びを、現代にたとえてみましょう。「起業して成功者を目指す」「企業内で社員として才能を活かす」どちらを選ぶか?といったケースが近いかもしれません。あるいは「都会に出るか」「地元に残るか」の二択も当てはまります。

起業し時代の寵児としてもてはやされる人生、憧れる人も多いでしょう。しかしベンチャー企業のうち10年後に残るのは1割以下、とのデータもあります。天下を取るほどではないせよ、起業して勝ち残っていくのは厳しいことに変わりはありません。

起業が失敗すれば、多額の負債を抱え、苦難の道を歩むこととなります。「それでもいい、自分は世にイノベーションを起こしたい!」と高い志を持つならば、起業するのもよいでしょう。

しかし、自分の能力を最大限に活かすのはどこなのか?一度じっくり考えてみることが大切です。

都会に出たり起業して成功したりしなくとも、自分の特性や才能を生かし「有意義な仕事人生は送れる」ことを、政宗の人生は教えてくれています。

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(文:陽菜ひよ子

― presented by paiza

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